第30話 「雨宿りの客」後編
遺体は、隣の空き部屋に、移された。
ルシルは、宿の主人に、頼んだ。
「……雨が止んで、役人が来るまで、誰も、宿を出られません。その間、わたくしが、調べても」
主人は、しばらく、ルシルを見た。
「……あんた、ただの客じゃ、ないな」
「……ロザリーと申します。異端審問局の、記録官です」
食堂が、静まり返った。
商人が、立ち上がった。太った体を、揺らして。
「……し、審問官だと? 冗談じゃない。俺は、何も、していないぞ」
「……バルトさん、でしたか」
ルシルは、宿帳を見て、名を呼んだ。
「……まだ、誰も、疑っていません。順番に、お話を、伺うだけです」
バルトが、座り直した。額に、汗が浮いていた。
ルシルは、一人ずつ、聞くことにした。
*
最初は、バルト。商人だった。
「……金貸しとは、お知り合いで」
「……知り合いも何も。あいつには、借金が、あった。だがな、殺しちゃいない!」
「……いくら、借りていたんですか」
「……二百ゴート。利息で、倍に膨れた。あいつは、強欲だった。皆、あいつを、恨んでいたさ。俺だけじゃ、ない」
バルトは、必死だった。汗を、拭った。
「……夕食の後、俺は、ずっと食堂にいた。皆が、見ている。二階には、上がっていない。誓って、本当だ!」
ルシルは、手帳に、一行書いた。
【バルト。借金二百ゴート。動揺、大。アリバイを、自分から強く主張】
(……怪しい。でも、怪しすぎる)
ルシルは、内心で、思った。
(……本当に殺した人間は、こんなに、騒ぎますかしら)
*
次は、若い女。イレーヌ、と名乗った。
窓際に、座ったまま。顔を、上げなかった。
「……イレーヌさん。金貸しとは」
「……関係、ありません」
声が、小さかった。
「……でも、さっきから、震えていらっしゃる」
イレーヌの肩が、びくりと、動いた。
「……人が、死んだんです。怖いに、決まっています」
「……それだけ、ですか」
イレーヌが、初めて、顔を上げた。
目に、涙が、滲んでいた。
「……あの人は、わたしの、昔のことを、知っていました。誰にも、言えないことを。だから……だから、消えてくれて、ほっとしました。でも、殺してなんか、いません」
ルシルは、イレーヌの手を、見た。
膝の上で、固く組まれた、白い指。
(……この人は、嘘を、ついていない。少なくとも、今の言葉は)
【イレーヌ。金貸しに、過去の秘密を握られていた。動機あり。でも、震えは、本物】
*
三人目は、医師。モレル、と名乗った。
モレルは、落ち着いていた。革の鞄を、膝に乗せたまま。
ルシルは、答える前に、モレルを、測った。
爪。きれいに、切り揃えられている。指先に、インクの染みも、薬品の跡もない。けれど、右手の人差し指の腹に、小さな、固いタコがあった。
(……ペンだこ。それも、深い)
(……医師にしては、紙に向かう時間が、長すぎる人ですわ)
「……あなたは、すぐに『卒中』と、おっしゃいました」
「……医師として、見立てを述べたまでだ」
「……遺体を、ほとんど、調べずに」
「……長年の、経験だよ。あの肥り方、あの顔色。卒中以外に、考えにくい」
ルシルは、モレルの鞄を、見た。
「……立派な、医療鞄ですね」
「……仕事道具だ」
「……中を、拝見しても」
モレルの、指が、一瞬、鞄の留め金を、押さえた。
「……令状でも、あるのかね」
ルシルは、微笑まなかった。
「……いいえ。お願い、ですわ」
モレルは、鞄を、開けなかった。
【モレル。医師。即座に病死と断定。鞄を、見せたがらない。手に、深いペンだこ】
(……この人が、一番、落ち着いている)
(……落ち着きすぎている)
*
最後は、痩せた老人だった。
名を、聞いた。
老人は、しばらく、黙っていた。
それから、低い声で、言った。
「……名乗るほどの、者では、ありません」
「……宿帳には、お名前が」
「……偽名です」
ルシルは、少し、驚いた。正直な、嘘の告供だった。
「……なぜ、偽名を」
「……あの金貸しに、会いに来た。十年、探して、やっと、ここで、見つけた」
老人の、目が、暗く光った。
「……あの男は、昔、わたしの娘を、騙した。娘は、それで、死んだ。わたしは、あの男を、殺すために、来た」
食堂の空気が、凍った。
「……でも」
老人は、続けた。
「……殺す前に、誰かが、殺した。先を、越された。それだけだ」
ルシルは、老人を、見た。
(……動機は、一番、強い)
(……サイズ、この人は、それを、隠さなかった)
【老人。偽名。娘を金貸しに騙され死なせた。殺意を、認めている。だが、隠さない】
*
聞き込みを終えて、ルシルは、もう一度、遺体のあった部屋に、戻った。
エリオットが、扉の脇に、立っていた。
「……何か、あったか」
「……まだ。でも、見ておきたいものが」
ルシルは、床を、見た。
椅子の、足元。木の床板に、小さな、水の跡があった。乾きかけていた。点々と、扉の方へ、続いていた。
ルシルは、メジャーを、当てた。
水滴の、間隔。三十センチ。歩幅ではない。もっと、狭い。
(……雨に濡れた、誰かが、ここに来た)
(……でも、客は全員、宿の中にいた。雨には、濡れていないはず)
ルシルは、窓を、見た。
閉まっていた。内側から、掛け金。
(……窓も、閉まっている)
(……密室の中に、雨に濡れた誰かが、来た痕跡だけが、ある)
ルシルは、その水の跡を、手帳に、書き留めた。
【床に、水滴。乾きかけ。間隔三十センチ。客は全員、雨に濡れていないはず】
答えには、まだ、遠かった。
けれど、これは、確かに、おかしかった。
*
ルシルは、食堂に、戻った。
四人を、見回した。
借金のバルト。秘密のイレーヌ。落ち着きすぎた医師モレル。殺意を認めた老人。
(……全員に、動機があります)
(……全員、怪しい)
(……そして、全員、二階には上がっていない、と言う)
ルシルは、給仕の娘を、呼んだ。
マリー、という名だった。
「……マリーさん。夕食を、運んだとき、金貸しは、生きていましたね」
「……はい。確かに。『うるさい、置いていけ』と」
「……それは、何時頃ですか」
「……夕食の鐘の、すぐ後です。鐘は、毎晩、同じ時刻に、鳴ります」
ルシルは、考えた。
(……夕食の鐘の後、金貸しは、生きていた)
(……その後、悲鳴まで、客は全員、食堂にいた)
(……二階へ続く階段は、食堂から、丸見え)
(……誰も、上がっていない)
(……なのに、金貸しは、死んだ)
(……内側から、閂のかかった、部屋で)
ルシルは、メジャーを、握った。
(……二つ、おかしい)
(……一つ。密室)
(……もう一つ。握っていたものが、消えた)
(……それから、もう一つ。床の、水滴)
(……三つ、おかしい)
ルシルは、隣の部屋の、遺体を、見た。
答えは、まだ、出ていなかった。
けれど、一つだけ、確かなことが、あった。
(……これは、病死では、ありません)
(……誰かが、殺しました)
(……この、雨宿りの客の、中の、誰かが)
雨は、まだ、降っていた。
窓の外で、川の音が、低く、鳴っていた。




