第30話 「雨宿りの客」前編
雨は、三日前から降っていた。
ルシルとエリオットが、その宿にたどり着いたのは、日が暮れる少し前だった。
街道沿いの、古い宿屋だった。二階建て。石造りの一階に、木造の二階。看板が、雨に濡れて、文字が読めなくなっていた。
「……橋が、落ちたそうだ」
エリオットが、外套の雨を払いながら言った。
「……川が、増水して。街道は、当分、通れない」
「……つまり」
「……足止めだ。雨が止んで、橋が直るまで」
ルシルは、宿の中を、見た。
暖炉に、火が入っていた。狭い食堂に、先客が、何人かいた。
ルシルは、無意識に、数えた。
(……客、六人。宿の者、二人)
雨音が、屋根を叩いていた。
宿の主人が、出てきた。五十がらみの、無口な男だった。背が高く、手が大きかった。
「……お泊まりで」
「……ええ。二部屋、空いていますか」
「……一部屋しか、空いてない。橋が落ちて、皆、足止めだ」
エリオットが、ルシルを見た。ルシルは、小さくうなずいた。
「……では、一部屋で。彼女に使わせます。私は、食堂で構いません」
主人が、うなずいた。それから、宿帳を、差し出した。
「……名前を」
ルシルは、ペンを取った。書こうとして、手を止めた。
(……異端審問官、と書くと、皆が、警戒しますわ)
ルシルは、「ロザリー」とだけ書いた。
主人が、宿帳を、受け取った。ちらりと、名前を見た。表情は、変わらなかった。
食堂の隅に、座った。
ルシルは、温かい茶を、両手で包んだ。
そして、客たちを、見た。
商人風の、太った男。さっきから、誰かに、大声で話していた。借金がどうの、利息がどうの、と聞こえた。
若い女。窓際に、一人で座っていた。膝の上で、手を、固く組んでいた。指が、白かった。
旅装の、年配の男。革の鞄を、膝に乗せていた。鞄の留め金が、医療器具の形をしていた。
(……医師ですわ)
そして、暖炉の近くに、もう一人。
痩せた、老人だった。身なりは、悪くない。けれど、目だけが、落ち着かなかった。何度も、二階へ続く階段を、見上げていた。
(……二階に、何か)
ルシルは、茶を、一口飲んだ。
「……エリオット」
「ん」
「……あの階段の先に、誰か、いますか」
エリオットが、主人に、さりげなく聞いた。
戻ってきて、低い声で言った。
「……長逗留の客が、一人。二階の、奥の部屋。金貸しらしい」
「……金貸し」
「……この食堂の連中、何人かが、その男に、借りがあるそうだ」
ルシルは、もう一度、客たちを見た。
商人。若い女。医師。落ち着かない老人。
(……全員、同じ宿に、足止め)
(……全員、二階の金貸しと、何か、ある)
雨音が、強くなった。
その夜、夕食の鐘が鳴った。
宿の食堂に、客が集まった。金貸しは、降りてこなかった。
「……あの人は、部屋で食べる」と、宿の主人が言った。「いつも、そうだ。給仕の娘が、運んでいく」
給仕の娘が、盆を持って、階段を上がっていった。
しばらくして、降りてきた。
「……お元気でしたか」と、誰かが、皮肉っぽく聞いた。
「……はい。『うるさい、置いていけ』と、いつも通りで」
食堂に、小さな笑いが、起きた。
ルシルは、何とはなしに、その光景を、見ていた。
給仕の娘が、盆を持って上がり、戻ってくるまで。鐘の音。階段の軋み。「うるさい、置いていけ」という、誰かの伝聞。
(……感じの悪い人ですわね)
それだけ、思った。
食事が、進んだ。
雨は、止まなかった。
夜が、更けた。
悲鳴が、聞こえたのは、消灯の、少し後だった。
給仕の娘の、悲鳴だった。
二階から。
ルシルは、立ち上がった。
エリオットが、先に、階段を駆け上がった。
二階の、奥の部屋。
扉が、開いていた。給仕の娘が、盆を落として、立ちすくんでいた。
部屋の中。
金貸しが、椅子に座ったまま、こと切れていた。
ルシルは、部屋に、入った。
外から、客たちも集まってきた。
そして、最初に、扉を見た。
内側に、閂があった。
閂の、受け金が、壊れていた。たった今、誰かが、外から、押し破ったように。
「……鍵は」
「……開けたのは、私です」と、給仕の娘が、震える声で言った。「夜食の、催促かと思って……でも、返事がなくて……心張り棒が、かかっていて……体当たりで……」
ルシルは、閂を、見た。
内側から、かかっていた。
(……密室)
ルシルは、金貸しの遺体を、見た。
椅子に、座ったまま。苦悶の表情は、ない。穏やかな、死に顔だった。
旅の医師が、後ろから、入ってきた。
遺体を、一目見て、言った。
「……卒中だな。この年で、太りすぎだ。血の道が、詰まったんだろう」
医師は、断定的だった。
「……外傷もない。部屋は、内側から閉まっていた。誰も、入れない。病死だよ」
ルシルは、答えなかった。
ただ、金貸しの、手を、見ていた。
右手が、不自然な形で、垂れていた。
ルシルは、メジャーを、取り出した。
チャキ、と鳴らした。
医師が、眉を、上げた。
「……お嬢さん。何のつもりだ」
ルシルは、医師を、見なかった。
遺体だけを、見ていた。
「……卒中なら、一つ、合わないものが、あります」
ルシルは、金貸しの、垂れた右手を、指した。
「……この手の、指です」
金貸しの右手は、何かを握ろうとした形のまま、固まっていた。指が、内側へ、曲がっていた。
「……人は、卒中で倒れるとき、こんな風に、握りません」
ルシルは、メジャーを、指の隙間に、そっと差し込んだ。
「……ここに、何かが、あった。握っていたものが、抜き取られた後の、形です」
医師の顔から、笑みが、消えた。
「……お嬢さん。それは、憶測だ」
「……憶測です。今は」
ルシルは、顔を上げた。
「……でも、これから、測ります」




