第29話 「同じ型」後編
エリオットが、椅子を引いて、座った。
「……心当たりは」
「……あります」
ルシルは、机の引き出しから、一枚、別の紙を出した。
これは、改ざん文書ではなかった。正規の、書記長室の内線記録だった。何ヶ月か前、ルシルが、別件で手に入れたもの。
差出人の欄に、署名があった。
クレマン書記長の、署名。
「……これを、見てください」
ルシルは、署名の中の、一文字を指した。
「……この『R』の、横棒。最後に、わずかに、跳ねています」
「……跳ねて、いるな」
「……書き慣れた人間の、癖です。何千回も書いた署名だから、最後の一画で、力が抜けて、跳ねる」
ルシルは、改ざん文書の、削り跡を、もう一度示した。
「……削りの、力の抜け方と、同じです。最後の一瞬で、緩む」
エリオットが、署名と、削り跡を、見比べた。
「……同じ、癖だと」
「……署名の跳ねと、削りの抜け。出てくる場所が、同じです。動作の、終わり際」
ルシルは、メジャーを、署名の横棒に当てた。
「……跳ねの長さ、二ミリ。削りの、力が抜ける距離も、二ミリ」
部屋が、静かになった。
「……同じ、二ミリ」
「……ええ」
エリオットが、署名から、顔を上げた。
「……繋がったな」
「……繋がりました」
ルシルは、署名を、見つめた。
長く、追ってきた手だった。十五年前の判決記録。十一年前の処分事案。書記係長の証言を消した記録。すべて、輪郭のない「誰か」だった。その誰かが、今、名前を持った。
(……クレマン書記長)
(……あなたが、書きました)
(……十五年前も、十一年前も、全部、あなたの手で)
ルシルは、メジャーを、ゆっくりと巻いた。
指先に、わずかな熱があった。長い計測の、果てに辿り着いた、手応えだった。
エリオットも、それを感じたらしい。
「……これで、クレマンを、追える」
「……ええ」
ルシルは、一度、うなずいた。
うなずいて――それから、止まった。
手応えの底に、何か、噛み合わないものが、あった。
(……でも)
ルシルは、四枚の改ざん文書を、もう一度、見た。
(……この人は、書いただけ)
削った。書いた。枠を引いた。すべて、クレマンの手だ。それは、測れた。
けれど、改ざんの「内容」を、決めたのは、誰か。
どの記録を、どう書き換えるか。それを命じたのは、この手では、ない。
(……手は、測れます)
(……でも、手を動かした、その先は)
ルシルは、マーガレットから受け取った、納品の記録を、引き寄せた。
臙脂色の封筒に、入っていた、あの一枚。
書記長室特注羊皮紙の、本当の納品先。
ルシルは、その名前を、もう一度、見た。
ランプの光が、文字を照らした。
納品先の欄に、こう、書いてあった。
【ロワズリー伯爵家】
ルシルは、その名を、長く見た。
(……ロワズリー)
その名には、覚えがあった。
ロワズリー子爵。十五年前、父と関わりのあった人物。先日、マーガレットが、ようやく名前を思い出した、あの人。
けれど、ここに書いてあるのは、子爵ではなかった。
伯爵だった。
(……子爵では、ない)
ルシルは、頭の中で、家系を、並べた。
ロワズリーの家は、二つに分かれている。本家が、伯爵。分家が、子爵。同じ血筋だが、格が違う。父と関わったのは、分家の子爵の方だった。
(……父が知っていたのは、分家の子爵)
(……でも、羊皮紙を買っていたのは、本家の伯爵)
(……父は、分家を通して、本家に、近づこうとしていた……?)
線が、一本、奥へ伸びた。
「……エリオット」
「ん」
「……書記長室は、経由地でした。特注の羊皮紙は、書記長室を通って、ここへ納められていました」
ルシルは、納品先の名を、指した。
エリオットが、それを読んだ。
さっき、マーガレットの家で、血の気を引かせた、その名前。
「……ロワズリー伯爵」
エリオットが、低く言った。
「……俺の兄の裁判の、最終承認を、出した家だ」
「……ええ」
「……当時の、当主が」
「……今も、当主かどうかは、わかりません。でも、家は、続いています」
ルシルは、命令系統図を、引き寄せた。
あの、点線の空欄。
縦二センチ、横五センチ。名前一つ分の、空白。
ルシルは、その空欄を、見た。
そして、ロワズリー伯爵家、と書かれた、納品記録を、見た。
二つを、並べた。
(……ここに、入る)
(……でも)
ルシルは、筆を、取らなかった。
「……書かないのか"」
「……書きません」
「……名前は、出た。お前が、ずっと探していた、空欄の名前だ」
「……出ました。一枚の記録に」
ルシルは、ロワズリー伯爵家、の文字を、指でなぞった。
「……でも、これは、納品の記録です。羊皮紙を、買った家。それだけです」
「……それだけ、か」
「……羊皮紙を買ったことと、記録の改ざんを命じたことは、別です。同じ家かもしれない。でも、同じだと、証明されていません」
ルシルは、エリオットを、見た。
「……一枚の紙で、人の名を、空欄に入れる。それは、改ざんと、同じです」
エリオットが、しばらく、黙った。
それから、小さく、息を吐いた。
「……お前は、本当に、慎重だな」
「……父の、流儀です」
「……腹は、立たないのか。兄を裁いた家の名前が、目の前にあって」
ルシルは、少し、間を置いた。
「……立ちます」
静かに、言った。
「……でも、腹を立てて書いた名前は、いつか、覆されます。覆されない名前を、書きたいんです」
ルシルは、納品記録を、封筒に戻した。
命令系統図を、三つ折りにした。
手帳を、開いた。
【改ざんの手=クレマン書記長と一致(署名の癖と削り跡が同一)。ただしクレマンは実行者。納品先=ロワズリー伯爵家。命令者と確定するには、証拠が不足】
筆を、置いた。
「……残りの、半分は」
エリオットが、聞いた。
「……ヴィクトールです」
ルシルは、窓の外を見た。夜が、深かった。
「……あの人は、命じた者を、知っています。北部遠征で、誰が記録を書き換えさせたか。あの人は、その場に、いました」
「……また、来るか」
「……来ます」
ルシルは、ランプの灯を、見た。
「……あの人も、待っているはずです。誰かが、空欄を、埋めに来るのを」
ランプの油が、まだ、燃えていた。
ルシルは、四枚の羊皮紙を、丁寧に、棚の奥にしまった。
鍵を、かけた。
長い夜が、もう少しで、明けようとしていた。




