第28話 「預けられた半分」
朝の記録室。
ルシルは、机に羊皮紙を広げて、命令系統図を見ていた。
昨日から、何度も見ている。
点線の空欄。縦二センチ、横五センチ。名前一つ分の、空白。
(……埋める手がかりが、もう一つ要りますわ)
ヴィクトールは、また来ると言った。けれど、いつ来るかはわからない。待つだけでは、進まない。
(……父は、証拠を分散させた)
(……薬箱は、敵の手に。鍵は、アルベール先生とともに、失われた)
(……でも、もう一つ、あるはずですわ)
ルシルは、母の言葉を思い出していた。
いつか母が言った。父は、薬箱よりずっと大事なものを、信頼できる人間に預けた、と。長い付き合いの、信頼できる人間に。
(……長い付き合いの、信頼できる人間)
ルシルの指が、止まった。
心当たりは、一人しかいなかった。
扉が開いた。
「おはよう」
エリオットだった。手に布包みを持っていた。
「……おはようございます」
「朝飯だ。今日は、柔らかいのを探してきた」
ルシルは布を開いた。白いパンだった。黒パンより、ずっと柔らかそうだった。
「……柔らかい」
「昨日、注文をつけられたからな」
「……善処する、と言っていました」
「善処した」
ルシルはパンを一口かじった。柔らかかった。顎が、痛くなかった。
(……これは、いいですわ)
「……エリオット」
「ん」
「今日、行きたい場所があります」
「どこだ」
「……マーガレットの家」
エリオットが、布の端を畳む手を止めた。
「……乳母の」
「……ええ」
「何かあるのか」
ルシルは、命令系統図を、丁寧に三つ折りに戻した。
「……父が、何かを預けた相手だと思います。薬箱より、大事なものを」
エリオットが、微かに間を置いた。
「……根拠は」
「……母の証言です。長い付き合いの、信頼できる人間。十年以上仕えた乳母なら、当てはまります」
「……確証は」
「……ありません。でも」
ルシルは立ち上がった。外套を手に取った。
「……測りに行きます」
マーガレットの家は、王都の外れにあった。
母の療養施設から、歩いて十五分。石造りの古い平屋。手入れの行き届いた庭。垣根に、薔薇が絡んでいた。
門に手をかけた。きしむ音がした。
この蝶番は、十年前から直っていない。マーガレットは「直さないとねえ」と言い続けて、結局、直さない人だった。
(……変わらない方を、選びますの)
庭に入った。薔薇の香りが、出迎えた。
玄関の扉が、開いた。
「あら――」
セリーヌだった。
白いエプロンドレス。手に、籠。籠の中に、摘んだばかりの薔薇が数本。
「お姉様」
セリーヌが、にっこりした。
「いらっしゃるって、お手紙にも何にもなかったのに」
「……朝, 決めた」
「相変わらずなんだから」
セリーヌが籠を玄関の脇に置いた。それから、ルシルに駆け寄ってきた。
ルシルは、半歩、後ずさった。
「……抱きつかれると、計測がずれる」
「お姉様、今、何も測ってないでしょう」
「……心の中で、測ってる」
「ふふ」
セリーヌが、ルシルの顔を、しばらく見た。
ルシルは、目を逸らさなかった。逸らすと、当てられる。逸らさなくても、当てられる。それは、経験から、わかっていた。
「……お姉様」
「ん」
「今日は、お仕事ですわね」
「……なぜ」
「目が、お仕事の目ですもの。わたくしを見ているようで、その後ろの扉の数を数えていらっしゃる」
ルシルは、答えなかった。
図星だった。玄関の奥に、扉が二つ。窓が一つ。無意識に、数えていた。
「……癖です」
「存じております」
セリーヌが、柔らかく笑った。
「お姉様の癖は、全部、存じておりますもの」
セリーヌが、家の奥へ呼びかけた。
「マーガレット、お姉様がお見えよ」
奥から、ゆっくりとした足音がした。
マーガレットだった。
白髪を、後ろで一つにまとめていた。背は、少し丸まっていた。手に、針と糸を持ったままだった。
ルシルは、その手を見た。指の節が、太くなっていた。長年、針を持ち続けた手だった。
けれど、指先の動きには、迷いがない。糸を通す手元が、今も狂わない人の手だった。
(……この人は、繕う人。ほつれを、見つける人)
(……父が、信じたのも、わかりますわ)
マーガレットが、ルシルを見て、目を細めた。
「……ルシルお嬢様。また、お痩せになって」
「……三口は、食べています」
「三口を、食事と数える人は、お嬢様くらいのものですよ」
「……一口の量を、揃えています。三口でも、総量は――」
「召し上がってない、ということですね」
「……」
「ほら、ご覧なさい。セリーヌお嬢様」
「三秒ですわね」とセリーヌが、横で楽しそうに言った。
ルシルは、答えなかった。マーガレットには、子供の頃から、勝てたためしがない。理屈を並べた先に、いつも、この人が立っている。
マーガレットが、エリオットの方を見た。
「この方が、いつものパンを?」
「……ええ」
「お嬢様に、柔らかいものを選んでくださる方は、初めてです」
マーガレットが、エリオットに、小さく会釈した。卑屈ではなかった。長く人を見てきた者の、静かな品定めの目だった。
「……どうぞ、これからも」
「……はい」
エリオットが、短く答えた。
ルシルは、その短さを、聞いた。
(……エリオットが、言葉を選んでいますわ。珍しい)
マーガレットが、針と糸を、エプロンのポケットにしまった。
「……それで、今日は、どうなさいました」
ルシルは、マーガレットを、まっすぐ見た。
「……マーガレット。父から、何か、預かっていませんか」
マーガレットの手が、止まった。
ポケットの上に置かれた手が、一瞬、固くなった。
(……知っている)
ルシルは、その一瞬を、測った。




