第27話 鐘の鳴る前」後編
記録室に戻った頃には、陽が傾いていた。
窓から差す光が、橙色になっていた。机の上に、斜めの影が伸びていた。
市場の喧騒が、嘘のようだった。部屋は、静かだった。自分の呼吸の音が聞こえるくらい、静かだった。
ルシルは外套を脱がずに、机に座った。
ポケットから、紙を出した。
三つ折り。机の上に置いた。
いつもなら、すぐにメジャーを出す。紙の寸法を測る。折り目の数を数える。インクの滲みを確認する。それから、読む。
今日は、手が動かなかった。
メジャーは、腰に下げたままだった。
(……開けば、わかる)
(……父が、何を抱えて死んだのか)
指先が、紙の角に触れた。
冷たかった。
ルシルは、しばらくそのまま動かなかった。
扉が開いた。
「……戻ってたか」
エリオットだった。後ろ手に扉を閉めた。
「……ええ」
「……開けたか」
「……いいえ」
「……なぜ」
ルシルは、紙を見たまま答えた。
「……まだ、測っていません」
「……測るも何も、開けば書いてある」
「……開けば、書いてあります。だから、怖いんです」
エリオットが、足を止めた。
ルシルは、自分でも意外なほど素真面目に言ってしまったと思った。
「……父が、命を懸けて隠したものです。開けば、答えが出る。出てしまえば、もう、知らなかった頃には戻れません」
「……」
「……一度測った数字は、消せない」
エリオットが、ゆっくり近づいた。机の向かいに立った。
「……一人で開けるか。それとも」
「……一緒に、見てください」
「……わかった」
ルシルは、紙の端に指をかけた。
一つ目の折り目を、開いた。
二つ目を、開いた。
羊皮紙だった。古い。端が、わずかに反っていた。
文字が、並んでいた。几帳面な字。インクは、褪せて、茶色がかっていた。
ルシルは、読む前に、目が先に寸法を拾った。
行間、二センチ均等。文字の高さ、一定。余白の取り方に、迷いがない。
(……父の字ですわ)
誰かに見せるためではなく、自分が後で正確に読み返すために書かれた字だった。父は、いつもそうだった。数字を、感情より信じる人だった。
ルシルは、読んだ。
北部遠征の、記録だった。正確には、その写しだった。
日付。部隊名。死者の数。正式な命令系統が、図のように書いてあった。
将軍。その下に、副官。その下に、補給を担当した文官たち。
一番下に、書記長室。
ルシルは、図を上へ、たどった。将軍の名。そのさらに上。
指が、止まった。
点線で、囲まれた空欄が、あった。
名前が、書いていなかった。
「……空白」
エリオットが、低く言った。
「……ええ」
ルシルは、空欄を見た。
点線の枠。縦二センチ、横五センチ。
ようやく、メジャーが、手に出ていた。無意識だった。枠の寸法を測っていた。
(……ここに、名前が入る)
(……父は、この枠の中身を、知っていた)
(……でも、書かなかった)
「……なぜ、空白にしたんですか」
ルシルは、声に出していた。
「……父は、V・D・Lのときは、イニシャルで残しました。なら、この枠も、何か書けたはずです」
エリオットが、羊皮紙を見つめた。
「……書けなかったんじゃないか」
「……書く前に」
「……ああ。間に合わなかった」
部屋が、静かになった。
ルシルは、空欄の縁を、指でなぞった。
点線の引き方が、まっすぐだった。定規を当てて引いた線だった。
父の手だ。
ルシルは、その線を、長く見た。
父は、空欄すら、きっちり測って囲んでいた。誰の名前も入っていない、ただの空白に、わざわざ定規を当てた。線の四隅は、正確に直角だった。一ミリの狂いもなかった。
(……ここには、入るべき名前がある)
(……父は、それを知っていた)
(……知っていて、書けなかった。確証が、足りなかった)
空白の枠は、未完成の証拠ではなかった。
父が、最後まで誠実だった証拠だった。確かめられないことは、書かない。憶測で、人の名を記録に残さない。それが、父の流儀だった。
(……だから、枠だけ、残した)
(……いつか、誰かが、確証を持って、ここを埋められるように)
「……エリオット」
「ん」
「……兄上の冤罪は、北部遠征の記録改ざんが原因でしたわね」
「……ああ」
「……この命令系統の、どこかに、兄上の名前を消した人間がいます」
エリオットが、答えなかった。
ルシルは、顔を上げてみた。
エリオットの顔は、いつもと同じだった。表情を、動かさないようにしていた。動かさないように、している顔だった。
「……ルシル」
「……はい」
「……俺は、兄の名誉を取り戻すために、この仕事をしている。お前と組んだのも、そのためだ」
「……知っています」
「……だが、今、思った」
エリオットが、羊皮紙から目を上げた。
「……この枠を埋めるのは、復讐のためじゃない。お前の父上が、ここに残したかったからだ」
ルシルは、エリオットを見た。
「……どういう意味ですか」
「……お前の父上は、自分が間に合わないと、わかっていた。それでも、枠を残した。誰かが、いつか埋めてくれると、信じて」
エリオットが、少し間を置いた。
「……その誰かが、お前だ」
ルシルは、空欄を、もう一度見た。
縦二センチ、横五センチ。
名前一つ分の、空白。
(……父は、わたくしに、宿題を残したんですわ)
(……答えは、書かなかった)
(……でも、答えにたどり着く道は、全部、残してくれた)
ルシルは、メジャーを、ゆっくりとしまった。
手帳を開いた。
今日初めて、筆が、迷わなかった。
【命令系統図。最上位に空欄あり。父が確証を得る前に死亡。枠は意図的に残されたもの】
筆を置いた。
「……この空欄を、埋めます」
「……どうやって」
「……埋められる人間が、あと一人、生きています」
ルシルは、窓の外を見た。陽は、ほとんど沈んでいた。
「……ヴィクトール・デュ・レニエ。あの人は、空欄の中身を知っている」
「……だが、見失った」
「……向こうから、また来ます」
ルシルは、確信を持って言った。
「……あの人は、渡したいんです。父の写しを持っていたことを、私に話した。それは、味方だという合図です」
エリオットが、外套を整えた。
「……腹が減った。何か食うか」
「……今日は、いりません」
「……そうか」
「……でも」
ルシルは、少しだけ間を置いた。
「……明日は、たぶん、食べられます」
エリオットが、扉を開けた。
「……明日は、ちゃんと持ってくる」
「……黒パンは、もう少し、柔らかいものでお願いします」
「……善処する」
扉が、静かに閉まった。
ルシルは、羊皮紙を、丁寧に三つ折りに戻した。
机の引き出しに、しまった。鍵をかけた。
窓の外は、もう、夜になりかけていた。
ルシルは、メジャーを一度だけ、チャキと鳴らした。
静かな記録室に、金属の音が、一つ、響いた。




