第27話 「鐘の鳴る前」
三日間は、長かった。
ルシルは、その三日で手帳に十六行を書いた。
【ヴィクトール・デュ・レニエ。元軍将校。北部遠征生存者。屋敷に監視あり、最低三名】
【ヴァンサン・ドゥ・ラクール。同部隊。病死記録に、発症場所の記載なし】
【クレマン。当時、書記長室次席。遠征記録の管理者】
三つの名前が、一本の線になりかけていた。
なりかけている、だけだった。線の片端が、まだ闇の中にある。
(……あと一つ、足りませんわ)
その一つを、今日、老人が持ってくる。
ルシルは、そう信じて南区へ向かった。
王都の南区は、昼前になると人が増える。
中央市場まで、あと三ブロック。歩きながら、ルシルは通りの幅を測った。
五メートル弱。石畳の目地、均等。荷馬車が二台すれ違える幅。
測りながら、指がポケットの中で動いていた。空のポケットだった。三日前まで、そこに父の鍵が入っていた。今朝は、置いてきた。
(……今日は、受け取る方ですわ)
「……北だ」
十歩後ろから、エリオットの声がした。
「……わかってる」
「……曲がるなら右だ」
「……わかっています」
右に曲がった。市場の入り口が見えた。
(……右、でしたわね。最初から)
市場に入ると、音と匂いが一度に来た。
野菜の土の匂い。焼いた肉。誰かの怒鳴り声。子供の笑い声。樽を転がす音。値切る声。人が、隙間なく動いていた。
ルシルは歩きながら、周囲を測った。
通路の幅、二メートル弱。一平方メートルあたりの人の密度、三人前後。視線の届く距離、約十メートル。それより先は、人の頭で見えない。
(……監視がいても、ここでは追えない)
(……どこに目を置いても、十メートルで途切れる)
(……ヴィクトールが、この場所を選んだ理由)
軍人の発想。ルシルはそう思った。逃げ道ではなく、見えなくなる距離を選ぶ。隠れるのではなく、紛れる。
時計台が見えた。
広場の中央。石造り。高さ、十五メートル前後。文字盤の直径、二メートル。長針が、昼まであと二十分を指していた。
台座の下、東側。
老人が、いた。
ベンチに座っていた。黒い外套。帽子を深くかぶっていた。両手が、膝の上で静かに組まれていた。
あの手だ、とルシルは思った。
骨張った指。指先に、古い火傷の痕。
ルシルは正面から近づいた。
近づきながら、測った。座高。肩の落ち方。呼吸の浅さ。
(……背筋、まだ伸びている)
(……六十近い。でも、立ち方を訓練された体)
(……長く、号令の側にいた人)
老人が、顔を上げた。
皺の奥の目が、鋭かった。こちらを値踏みする目だった。一秒で、足元から顔まで見た。
(……向こうも、測っています)
「……ロザリー記録官か」
「……はい」
「……座れ」
隣に座った。老人は前を向いたまま、小声で言った。
「……騎士は」
「……十歩後ろに」
「……いい判断だ。連れてきたのは、正しい」
数秒、沈黙があった。市場の喧騒が、遠くに聞こえた。
ルシルは、老人の声を測った。低い。掠れている。けれど、語尾が崩れない。一語ずつ、置くように話す人だった。
「……お父上のことを、ご存知ですか」
「……知っている」
一拍も、置かなかった。
「……エドモン・ロザリーは、正しかった」
ルシルは手帳を開いた。
「……何が、正しかったのですか」
「……北部遠征で、記録が書き換えられた」
老人が、わずかに声を落とした。
「……死者の数ではない。誰が命じたか、だ」
筆が、一瞬止まった。
「……命じた者が、いた」
「……いた。遠征を指揮した将軍ではない。もっと後ろにいた、文官だ」
ルシルは一行書いた。
【命じた者=将軍の後ろの文官】
「……クレマン書記長では、ありませんか」
老人が、帽子のつばを指で直した。骨張った指が、ゆっくり動いた。
「……クレマンは、書いた。命じられて、書いた」
「……では、命じた者は」
「……それを、お前に渡すために、ここに来た」
老人が、外套の内側に手を入れた。
折り畳まれた紙を、出した。
ルシルは受け取った。三つ折り。紙が、少し厚い。
「……ここでは、開くな」
「……はい」
「……お前の父上は、その文書の写しを持っていた。だから、消された」
ルシルは紙をポケットにしまった。指先が、かすかに冷たかった。
「……父は、知っていたのですね」
「……知っている。止めようとした。間に合わなかった」
「……なぜ、間に合わなかったのですか」
老人が、少し黙った。
膝の上で、組んだ手の指が、一度だけ握り直された。
「……相手が、一人ではなかったからだ」
そのとき。
エリオットの気配が、動いた。
十歩後ろの空気が、わずかに張った。ルシルは、背中でそれを感じた。
(……来た)
振り返らなかった。
「……来ています」
「……わかっている」
老人は、慌てなかった。ゆっくりと立ち上がった。帽子を、深く直した。
「……今日は、ここまでだ」
「……まだ、お聞きしたいことが――」
「……記録官」
老人が、ルシルを一度だけ、まっすぐ見た。
「……お前の父上は、お前のことを、よく話していた」
(……父が)
言葉が、出なかった。
返したい言葉が、喉の手前で、形にならなかった。
その一秒の間に、老人は人混みの中へ歩き出していた。
黒い外套が、人の波に溶けた。
三秒で、見えなくなった。
ルシルは、立ち上がった。
エリオットが、すぐ隣に来ていた。
「……三人、動いた。今は、引いた」
「……ヴィクトールは」
「……見失った。わざと、だろう」
「……ええ」
ルシルは、ポケットの上に手を当てた。
紙の厚みが、外から指に伝わった。
(……父の写し、持っていた人)
(……止めようとして、間に合わなかった)
(……相手、一人ではなかった)
市場の喧騒は、まだ続いていた。
頭の上で、鐘が鳴り始めた。
一つ。二つ。三つ。
ルシルは、数えた。十二回、鳴り終わった。
(……鐘が鳴る前に現れて、鐘が鳴る前に消えた)
(……約束通り、でしたわ)
「……戻る」
「……紙は」
「……記録室で開きます。エリオット」
エリオットは、何も言わなかった。
二人で、歩き始めた。
帰り道、ルシルは一本、間違えた。
エリオットは、今度は何も言わなかった。
ただ、十歩後ろが、一歩だけ近くなった。




