第26話 「会えない男」
ヴィクトール・デュ・レニエの屋敷は、王都の西区にあった。
現役を退いた軍人が住む界隈だった。
石造りの屋敷が並ぶ通りは、他の区画より静かだった。荷馬車も、行商人も、ほとんど入ってこない。石畳の目地まで、きれいに掃かれていた。住む人間の性質が、街の空気に出ていた。
ルシルとエリオットが西区に入った瞬間、エリオットが小声で言った。
「……見られている」
ルシルは歩調を変えなかった。
「……どこから」
「……角の煙草屋。それと、向かいの馬具屋の二階」
「……何人」
「……最低、二人。たぶん三人」
ルシルはメジャーを指に巻いた。チャキ、と一度鳴らした。
(……素人ではない。この距離でエリオットが気づいたということは、相当慣れている)
通りの幅を、目測した。六メートル弱。建物の間隔。逃げ道の数。
(……逃げる必要が生じたとき、右の路地が一番近い)
そのまま、ヴィクトールの屋敷の門の前に立った。
石造りの門だった。鉄の格子が、縦に並んでいた。格子の太さ、二センチ前後。古い。表面に、長年の錆が薄く乗っていた。
屋敷の中は、静かだった。
庭木が、風に揺れていた。それ以外、何も動かなかった。
呼び鈴を、一度鳴らした。
金属の音が、静かな通りに響いた。
待った。返事がなかった。
もう一度、鳴らした。
今度は、屋敷の奥で、かすかに足音がした。
近づいてくる音だった。しかし、扉は開かなかった。
足音が、門の内側で止まった。
沈黙が、数秒続いた。
それから、門の格子の隙間から、折り畳まれた紙が差し出された。
ルシルは受け取った。
(……手が、見えた)
老人の手だった。骨張っていた。指先に、古い火傷の痕のようなものがあった。
紙を開いた。
一行だけ書いてあった。
【今日は会えない。三日後、中央市場の時計台下。昼の鐘が鳴る前】
筆跡は、几帳面だった。しかし、力が入りすぎていた。線の端が、わずかに震えていた。
(……急いで書いた。あるいは、手が震えていた)
ルシルは紙を折り畳んだ。ポケットにしまった。
門の内側を、もう一度見た。
足音は、もうしなかった。
「……エリオット」
「……見た」
「……」
「……追うか」
「……いいえ」
ルシルは踵を返した。来た道を、同じ速度で歩き始めた。
監視の視線が、まだ背中にあった。
煙草屋の角を曲がった。視線が、離れた。
エリオットが、少し声を落として言った。
「……ヴィクトールは、監視されていることを知っている」
「……ええ。だから屋敷では会えない。三日後、人が多い場所を指定した」
「……人混みの中なら、監視の目が届きにくい」
「……軍人の発想です」
西区の石畳を、二人の足音が響いた。
「……三日、どうする」
「……ヴァンサン・ドゥ・ラクールの死亡記録を、読みます」
「……取り寄せた。昨日届いた」
「……死因は」
「……記録上は、心臓発作」
「……記録上は」
「……ああ」
ルシルは歩きながら、頭の中で数字を並べた。
北部遠征、二十年前。ヴァンサン死亡、十二年前。ロザリー家没落、十五年前。エリオットの兄の冤罪、十四年前。
(……順番がある)
「……エリオット」
「ん」
「……北部遠征に関わった人間の中で、今も生きているのは、誰ですか」
エリオットが、少し考えた。
「……ヴィクトール。それと」
一拍、置いた。
「……クレマンだ」
ルシルの足が、わずかに遅くなった。
「……クレマン書記長は、北部遠征に」
「……当時は書記長室の次席だった。遠征の記録を管理していた立場だ」
(……記録を管理していた)
(……記録を、書き換えられる立場にいた)
チャキ。
「……三日後、ヴィクトールが何を話すか。それで、輪郭が測れます」
エリオットが、ルシルの横顔を一瞬だけ見た。
何も言わなかった。
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記録室に戻ると、ルシルは外套も脱がずに机に座った。
エリオットから死亡記録を受け取った。広げた。
羊皮紙だった。古い。端が、わずかに反っていた。
メジャーを当てた。行間、二センチ均等。文字の大きさ、一定。インクの滲み、なし。
(……改ざんの痕跡は、ない)
死因の欄を、読んだ。
【心臓発作。発症から死亡まで、三時間】
(……三時間)
もう一度、記録全体を読んだ。
(……発症場所の記録が、ない)
ルシルは、メジャーを記録の余白に当てた。
通常、死亡記録には発症場所が書かれる。自宅か、路上か、他人の家か。それが書かれていない。
余白の広さを測った。書けるだけのスペースは、十分あった。
(……書かなかったのではない)
(……書けなかった)
筆を取った。
【ヴァンサン・ドゥ・ラクール。享年五十一。心臓発作・三時間。発症場所の記載なし。北部遠征の生存者。競売四日前、書類箱引き引き取り希望】
筆を置いた。
手帳を閉じた。
ヴィクトールの手を、思い出した。骨張った。震えていた。指先の古い火傷。
(……あの手は、長く何かを持っていた手だ)
(……剣か、ペンか)
(……どちらにせよ、何かを、ずっと握っていた)
「……エリオット」
「ん」
「……ヴァンサンが死んだとき、周囲に何か言っていた人間はいましたか」
「……調べてみる」
「……お願いします」
エリオットが立ち上がった。扉に向かいかけて、止まった。
「……ルシル」
「……ん」
「……三日後、中央市場には、俺も行く」
「……ヴィクトールが警戒します」
「……お前の三歩後ろにいる。それだけだ」
ルシルは少し間を置いた。
「……三歩は、近い」
「……五歩でもいい」
「……」
「……十歩は離れない」
「……わかりました」
扉が閉まった。
ルシルは一人になった。
死亡記録を、机の端に置いた。
窓の外を、少しだけ見た。王都の夕方の空だった。雲が、橙色に染まっていた。
(……ヴァンサンは、北部遠征で何かを知った)
(……だから、書類箱を引き取りに来た)
(……そして三年後に、どこかで倒れて、死んだ)
(……どこで)
答えは、記録のどこにも、なかった。
メジャーを、チャキと鳴らした。
静かな記録室に、金属の音が一つ、響いた。
【了】




