第23話 「狩る側の影」
朝、記録室。
ルシルは机に向かって、父の覚書の包みを広げていた。
羊皮紙の束。十五年前の父の字。
まだ、中身を読んでいなかった。
読む前に、順番を確認したかった。どの頁が、どの時期に書かれたか。
(……日付から、整理しますわ)
扉が開いた。
エリオットだった。足音が、いつもより少し速かった。
「ルシル」
「……ん」
「昨夜、子爵の館に人が来た」
ルシルは顔を上げた。
「……何人」
「二人。深夜。従者が気づいて警鐘を鳴らした。逃げた」
「……書斎は」
「荒らされていた。何かを探した形跡がある」
ルシルは、メジャーを指に巻いた。チャキ、と鳴った。
(……動いた)
(……偽情報を、信じた)
「子爵は」
「無事だ。寝室にいた」
「……書斎には、何もなかったから」
「ああ」
「……敵は今、焦っています」
エリオットが、椅子を引いて座った。
「……どういうことだ」
「手紙の中身は『子爵に報告に伺いたい』だけ。何の報告かは書いていない。敵は『ルシルが子爵に何かを渡す、あるいは受け取る』と読んだ。だから先回りして書斎を漁った」
「……何も見つからなかった」
「……ええ。次は」
ルシルは、覚書の包みを、静かに机の引き出しにしまった。
「……次は、私を、直接見ます」
エリオットが、少し間を置いた。
「……それで、お前はどうする」
「……見せます」
「何を」
「……私が,子爵の館に向かう姿を」
エリオットの顔が、固くなった。
「囮になる気か」
「……ええ」
「危険だ」
「……エリオットがいます」
エリオットが、少し間を置いた。
「……だから危険だ、と言っている」
ルシルは答えなかった。
覚書の包みをしまった引き出しに、鍵をかけた。
「……敵を一人、捕らえます。末端でいい。一人捕らえれば、組織の輪郭が測れます」
「……」
「動かされる側では、もう測れないものが、あります」
エリオットが、立ち上がった。
外套を羽織った。
「……合流地点は」
「……子爵の館の、二つ手前の角。日が中天に来る前」
「了解した」
扉に向かいかけて、止まった。
「……飯は食ったか」
「……後で」
「今食え」
「……後で食べます」
「お前の後では、来ない」
ルシルは答えなかった。
エリオットが、机の端に黒パンを置いて、出ていった。
ルシルは修道服の襟を整えた。
ポケットにメジャー。手帳。ガラスペン。
空のポーチを一つ、肩に下げた。
目立つように。
鏡の前に立った。
(……令嬢だった頃は、出かける前に侍女が三人がかりで支度をしてくれましたわ)
(……エリオットは今日も、私の襟が曲がっていても、何も言わなかった)
(……直してくれないのは、今日は別行動だからですわ。たぶん)
(……今日は、これで十分ですわ)
黒パンを、懐にしまった。
歩きながら食べることにした。
王都の石畳は、昼前の人通りで賑わっていた。
花売り、パン屋、荷馬車。
ルシルは人の流れの中を、いつもと同じ速度で歩いた。
しばらく歩いたところで、市場の屋台が並ぶ通りに入った。
鍋や銅器を並べた金物屋の前を通りかかった。
磨き上げられた銅鍋が、横一列に並んでいた。
ルシルは足を緩めた。値踏みするふりをして、銅鍋の表面を見た。
鈍い金色の反射の中に、後方の景色が映った。
(……三人)
足音の間隔も、同時に数えた。
(……一人目、二十歩後ろ。二人目、その倍。三人目、さらにその倍)
(……三段構え)
鍋から目を離した。歩き始めた。
(……エリオットは今頃、別の道を歩いているはずだ)
(……思ったより、深い)
(……それでも、一人は捕らえます)
懐の黒パンが、歩くたびに少し揺れた。
(……食べるのを、また忘れましたわ)
【前編 了】




