第20話 「測る前に、来ていた」後編
エリオットが廊下へ出た。
ルシルは保管室の中で、原本を手に持ったまま、動かなかった。
老女が、扉の脇で息を詰めていた。
三十秒ほどして、エリオットが戻ってきた。
「……いなかった」
「方向は」
「東の回廊。修道院の裏口に繋がる方向だ」
ルシルは手帳を見た。
書きかけの一行が、そこにあった。
【父の名が、ここにも】
「……原本を、全部持ち帰ります」
「ああ」
ルシルは老女を見た。
「この束を、異端審問局に預けることを、許可していただけますか」
老女が、迷わず頷いた。
「……持っていってください。私には、守りきれません」
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修道院を出た。
エリオットが束を抱えた。ルシルは手帳を持ったまま、隣を歩いた。
修道院の外壁が、後ろに遠ざかっていった。
「……足音の主、推定できますか」
エリオットが前を向いたまま答えた。
「一人。成人男性。走り慣れた足音だった」
「……修道士ではない」
「なぜわかる」
「修道院の廊下は反響します。修道士は反響を知っているから、自然に足音を抑える。あの足音は、抑え方を知らなかった」
エリオットが少し間を置いた。
「……来るとき、後ろに一人いた」
ルシルは歩調を変えなかった。
「……気づいていましたか」
「東の橋を渡る手前から。外套の男。修道院の手前で、いなくなった」
「……そこで、先回りした」
「ああ」
「……私たちが今日ここへ来ることを、知っていた人間がいます」
エリオットは答えなかった。
答えない、ということが、答えだった。
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修道院の裏口は、古い石造りの門だった。
門の外は、細い路地だった。両脇に低い塀。塀の向こうに、民家の裏庭。
エリオットが路地の突き当たりの広場へ向かい、行商人に短く話しかけた。ルシルは少し離れて待った。
エリオットが戻ってきた。
「さっき、若い男が急ぎ足で通ったそうだ。広場を抜けて、北へ」
「……特徴は」
「二十代前半。地味な服。左手に、布の鞄」
ルシルはメジャーを取り出した。
裏口の門から、路地の突き当たりまで、距離を測った。
「……エリオット、保管室の扉から裏口の門まで、距離を測れますか」
「今からか」
「……ええ」
エリオットが戻っていった。ルシルは路地の端で待った。
二分ほどして、エリオットが戻ってきた。
「四十八メートルだ」
ルシルは手帳に書いた。計算した。
「足音が聞こえてから、エリオットが廊下に出るまで、およそ十秒。四十八メートルを十秒。これは、修道士でも、行商人でもない。訓練を受けた人間の走り方です」
エリオットの顔が、少し変わった。
「……書記長室の、直属か」
「……わかりません。でも、末端ではない」
ルシルは手帳を閉じた。
路地の出口から、北の方角を見た。
もう、誰もいなかった。
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記録室に戻ったのは、夕方近くだった。
エリオットが原本の束を机の上に置いた。
ルシルは椅子に座り、束を広げた。
原本の記録は、改ざんされた写しより、ずっと多くのことを書いていた。
十五年前の記録。
父の名前。
書記長室への上申書。そして、却下の記録。
却下した人物の、署名があった。
ルシルはその署名を、しばらく見た。
インクが、部分的に滲んでいた。年月で、端が溶けていた。
読めたのは、最初の二文字だけだった。
「C・ク――」
(……)
メジャーを取り出した。署名の文字の幅を、測った。
測らなくてもよかった。
ただ、手が、動いた。
エリオットが、隣に立っていた。
「……読めるか」
「……二文字だけ」
「……」
「……でも」
ルシルは署名から目を離さなかった。
「……これは、測れます。いつか必ず」
エリオットが、何も言わなかった。
ルシルは手帳を開いた。
新しい頁に、一行だけ書いた。
【却下した人物の署名。C・ク――。判読、継続】
筆を置いた。
窓の外に、夕暮れが広がり始めていた。
しばらくして、エリオットが言った。
「……腹、空いてないか」
「……空いています」
「珍しく正直だな」
「……今日は、正直に答えられる気がします」
エリオットが外套の内側から、布包みを取り出した。
「……また持ってきていたんですか」
「今日くらいは食うと思った」
ルシルは受け取った。
黒パンだった。固い。
でも今日は、固いとは思わなかった。
窓の外の夕暮れを、一度だけ見た。
(……C・ク――)
(……測れていないものが、まだある)
(……でも、今日、測れたものは、十分に重い)
黒パンを、最後まで食べた。
【後編 了】




