第20話 「測る前に、来ていた」
朝の廊下は、静かだった。
ルシルは記録室へ向かう途中、書記長室の前を通った。
扉が、わずかに開いていた。
「――ロザリー記録官の動向を、引き続き」
声が、廊下に漏れた。低く、落ち着いた声だった。
ルシルは足を止めなかった。
歩調を変えなかった。視線も動かさなかった。
ただ、指先だけが、修道服のポケットの中で、メジャーの端を、一度だけ握った。
(……聞こえた)
(……今のは)
記録室の扉を開けた。中に入った。扉を閉めた。
それから初めて、足を止めた。
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机の上に、紙片が並んでいた。
書記長室特注羊皮紙の断片。納品リストの五枚。「ロワ」の三文字。臙脂色の蝋印の切れ端。
ルシルは椅子に座らなかった。
立ったまま、端から順に見ていった。
(……使われた場所より、使われていない場所を、考えますわ)
改ざんが確認された記録を、紙に列挙した。右側に、同時期に存在していたはずの関連記録を並べた。線を引いた。
一箇所、空白があった。
修道院の写本部屋で改ざんされた写しには、必ず「原本」が別の場所に保管されているはずだった。写本の慣習上、原本と写しは別々の場所に置かれる。
改ざんされた写しは見つかった。
原本が、まだどこにあるか、確認していなかった。
(……写本部屋に、もう一度)
扉が開いた。
「おはよう」
エリオットだった。手に、布包みを持っていた。
「……おはようございます」
「昨夜、何時間眠った」
「……四時間」
「また同じ数字だ」
「……今日は本当に四時間です」
エリオットが机の端に布包みを置いた。紙の図を、一瞥した。
「……また夜中に並べ直したのか」
「……ええ。気づいたことがあります」
ルシルは図を、エリオットに向けた。
「原本が、まだある」
「……どこに」
「修道院の写本部屋。別棟の保管室です。改ざんされた写しの原本が、そこにあるはず。まだ手がつけられていない可能性がある」
エリオットが、図を静かに見た。
「……根拠は」
「写本の慣習。写しと原本は必ず別々の場所に保管する。写本部屋は写しを置く場所。原本は別棟の閲覧禁止区画に入ります」
「……それが残っているとすれば」
「改ざん前の記録が、そこにある」
エリオットが顔を上げた。
「……行くのか」
「……ええ」
「今日か」
「今日」
エリオットは少し間を置いた。
「……確認だが」
「ん」
「今まで、現場に呼ばれて行っていた。今日は」
「……自分で、行きます」
エリオットは何も言わなかった。
布包みを開けた。黒パンと、干し肉が入っていた。
「食ってから行け」
「……歩きながら食べます」
「三割こぼす」
「……昨日測った。二割」
「測るな」
ルシルは受け取った。黒パンを一口かじった。固い。引き出しを開けた。砂糖煮の小瓶を出した。少し塗った。
「……朝は別枠」
エリオットが何か言いかけて、やめた。
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修道院への道は、エリオットが先に立った。
ルシルは後ろから、黒パンをかじりながらついていった。
修道院の外壁沿いの石畳を歩きながら、エリオットが言った。
「……今回は、呼ばれていない」
「……ええ」
「修道院側への事前の許可も、ない」
「……ありません」
「どうやって入る」
ルシルは少し考えた。
「……修道院長に、話を通します」
「正式依頼なしで、通るか」
「……エリオット、修道院長の前でその徽章を出すとき」
「ん」
「……右手で出していますか、左手で出していますか」
エリオットが少し間を置いた。
「……右手だが」
「右手だと、剣に近い。反射的に威圧と取られます。左手で、少し前に傾けて出すと、開示の所作になります」
「……お前に言われるとは思わなかった」
「……観察した結果です」
エリオットが、しばらく黙った。
「……わかった」
ルシルは前を向いた。
(……エリオットは、受け取るのが、早い)
それは口にしなかった。
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修道院長は、白髪の小柄な老女だった。
エリオットが徽章を、今度は左手で、少し前に傾けて見せた。
老女は徽章より先に、ルシルの持つ紙の図を、じっと見た。
「……これを、あなたが」
「……ええ」
「写本部屋のことを、よくごじんで」
「……記録の仕事をしています」
老女が、ルシルをしばらく見た。
「……実は」
老女が、静かに言った。
「三年前から、気になっていたことがありました。誰かに見せたかった。でも、どこへ持っていけばいいか、わからなかった」
「……どのようなことですか」
「案内しながら、お話しします」
老女が立ち上がった。
廊下を進みながら、老女は言った。
「三年前、若い写字生が一人、急に辞めました」
「……どのような方でしたか」
「寡黙な子でした。仕事は丁寧でした。ある日突然、荷物をまとめて出ていきました。理由は言いませんでした。それだけなら、よくあることです。でも」
老女が少し間を置いた。
「辞めた翌日、保管室の鍵が、差し替えられていました」
ルシルの手が、止まった。
「……鍵が」
「ええ。古い鍵と、形がわずかに違いました。私が気づいたのは、半年後でしたが」
「……中の記録は」
「確認しませんでした。怖くて」
老女が、静かに続けた。
「あなた方が来てくれて、よかった」
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別棟の保管室の扉は、重い木製だった。
老女が、懐から鍵を出した。鍵穴に差した。回した。
開いた。
埃の匂いがした。古い羊皮紙と、蝋燭の滓の匂い。
棚が、壁一面に並んでいた。年代順に並べられた束。
ルシルはメジャーをチャキと、一度だけ鳴らした。
「……エリオット、蝋燭を」
エリオットが壁の蝋燭立てに火を入れた。
ルシルは棚に近づいた。束の側面に書かれた年代を、端から確認した。
(……ここ)
一束を引き出した。紐を解いた。広げた。
文字があった。
改ざんされた写しとは、違う文字が。
ルシルは手帳を開いた。
新しい頁に、最初の一行を書き始めた。
そのとき。
廊下で、音がした。
エリオットが振り返った。
足音だった。一人分の、速い足音。近づいてくる音ではなかった。遠ざかっていく。
「……エリオット」
エリオットはすでに動いていた。扉を抜け、廊下へ出た。
ルシルは原本を手に持ったまま、書きかけの手帳を見た。
最初の一行だけが、そこにあった。
【父の名が、ここにも】
【前編 了】




