第19話 「もう一人の名」後編
エリオットが戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ルシルは記録室で、「ロワ」の三文字を含む納品リストの断片を机の中央に置き、残りの八枚を周囲に並べ直していた。
扉が開いた。
「わかった」
エリオットが、外套についた埃を払いながら言った。
「王都郊外、西街道沿いの館だ。五年前から一人住まい。ここ三ヶ月、訪問者の記録がない」
「……三ヶ月」
「ああ」
エリオットが、少し間を置いた。
「……お母様の施設から、西に歩いて二十分ほどの距離になる」
ルシルは、手帳を一度だけ見た。
開かなかった。
「……行く」
「今からか」
「……今から」
エリオットが頷いた。外套の埃を、もう一度払った。
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西街道は、王都の喧騒が少しずつ薄れていく道だった。
石畳が途切れ、土の道になる。両脇に低い生垣。その向こうに、まばらな農家。
ルシルは歩きながら、頭の中で数字を並べていた。
三ヶ月前、子爵への訪問者記録が途絶えた。
三ヶ月前、セリーヌが施設の近くで老紳士を見かけた。
三ヶ月前、アルベール先生の机の上から、薬箱が消えた。
(……全部、同じ三ヶ月前)
エリオットが、隣で静かに言った。
「……全部、同じ時期だな」
「……ええ」
二人は、それ以上は言わなかった。
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館は、西街道から少し奥まった場所にあった。
石造りの平屋。手入れの行き届いていない庭。生垣が、所々で枯れていた。
ルシルは門の前で、立ち止まった。
(……枯れ始めたのは、最近だ)
枯れた部分と、まだ生きている部分の境界を、目で測った。三ヶ月前後で、手入れが止まっている。
「……エリオット」
「見てる」
玄関の扉に、鍵がかかっていた。ただし、派手に壊された跡はない。正面から見る限り、正常に施錠されている。
エリオットが、無言で館の裏手に回った。ルシルは正面で待った。
少しして、エリオットが戻ってきた。
「裏の窓。桟に擦り痕がある」
「……太さは」
「細い。針金か、それに近いもの」
ルシルはメジャーを取り出した。
エリオットに案内され、裏手の窓へ回った。木製の窓枠。桟の内側に、金属で擦った細い痕。メジャーを当てた。
幅、〇・三センチ。
(……六話の鍵穴の擦り痕と、ほぼ同じ太さ)
(ただし、断定はしない。同じ太さの針金は、いくらでもある)
「……同じ手口かもしれない。断定はしない」
「ああ」
エリオットが窓を確認した。内側の閂は、外れていた。
「開けるぞ」
「……ええ」
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館の中は、暗かった。
カーテンが、すべて閉められていた。昼間なのに、光がほとんど入らない。
廊下を進んだ。埃の匂い。それから――かすかに、薬草の匂い。
ルシルの足が、止まった。
(……この匂い)
植物性の、甘ったるい匂い。蜜草を煎じた匂いに近い。
「エリオット」
「ん」
「……匂い、わかりますか」
エリオットが鼻を引いた。一拍置いた。
「……甘い」
「ええ」
(……四話と、同じ)
二人の歩調が、速くなった。
突き当たりの扉。エリオットが先に押し開けた。
寝室だった。
ベッドに、人が横たわっていた。
老人だった。白髪。痩せた体。毛布をかけられたまま、動かなかった。
ルシルは駆けた。
老人の傍に膝をついた。脈を確認した。
ある。弱い。しかし、ある。
「……生きています」
エリオットが、息を吐いた。
ルシルは老人の顔色を確認した。唇の端に、淡い紫変。皮膚の血色が悪い。目の下の色が、深い。
(……長期投与。三ヶ月、毎日少しずつ)
枕元の水差しを手に取った。中に、わずかに濁りがあった。鼻を近づけた。甘い。植物性の、遅効性の毒。
「……エリオット、水差しの中身を替えてください。外の井戸から、清潔な水を」
「ああ」
エリオットが水差しを持って出た。
ルシルは老人の両手を、毛布の上に出した。指先を確認した。爪の色。皮膚の乾燥。
(……まだ、間に合う)
鞄から空の小瓶を取り出し、水差しに残った濁った水を少量移した。証拠として、保管する。
エリオットが戻ってきた。清潔な水を、ベッドの横に置いた。
ルシルは老人の頭を、そっと持ち上げた。唇に、水をごく少量、含ませた。
老人の喉が、小さく動いた。
もう一度、水を含ませた。
老人の眉が、かすかに動いた。それから――目が、ゆっくりと開いた。
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老人は、しばらく天井を見ていた。
それからルシルを見た。瞳に、焦点が戻ってきた。
「……誰だ」
「……異端審問局の、記録官です」
「記録官……」
老人が、また目を閉じた。しばらく、黙っていた。
ルシルは待った。
老人が、再び目を開けた。今度は、少しだけはっきりしていた。
「……ルイスの、娘か」
ルシルの呼吸が、ごく短く、止まった。
「……ええ」
老人が、ゆっくりと息を吐いた。安堵のような、諦めのような、そのどちらとも測れない息だった。
「……来たか」
「……ロワズリー子爵様、ですか」
「……そうだ」
子爵が、天井を見たまま言った。
「……三ヶ月、待っていた。誰かが来ると、思っていた。ルイスの娘なら、必ず来ると」
「……」
「薬を盛られていることは、わかっていた。でも、動けなかった。声も、出なかった。ただ、待つしかなかった」
子爵の声が、震えていた。老いと、毒の蓄積と、三ヶ月分の孤独で、震えていた。
ルシルは、それを測らなかった。
測れなかった、のではなかった。
測る必要がなかった。
「……もう、大丈夫です」
それだけ言った。
子爵が、目を閉じた。
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しばらくして、子爵の意識が、もう少しはっきりしてきた。
ルシルは、水を含ませながら、静かに聞いた。
「……お父様の薬箱を、お預かりでしたか」
「……ああ」
「……今は」
「……三ヶ月前、夜中に、奪われた。顔は、見ていない。気づいたら、薬を盛られていた」
ルシルは手帳を取り出した。一行だけ書いた。
【薬箱、三ヶ月前に奪取。犯人の顔、不明】
「……侵入者が、何か残していきましたか」
「……床に、紙切れが一枚、落ちていた。拾って、枕の下に……」
子爵の手が、毛布の上で動いた。エリオットが枕を持ち上げた。
一枚の紙切れが、出てきた。
書記長室特注の羊皮紙の、切れ端だった。
ルシルは受け取った。切れ端の端に、印が一つ、押されていた。
臙脂色の、蝋印。
(……やはり)
手帳に書き写した。それだけだった。
子爵が、また口を開いた。
「……薬箱の鍵は、ルイスは私には渡さなかった。アルベールに預けたと言っていた。もう一か所、別の場所にも、何か残していると……」
子爵の声が、ゆっくりと弱くなっていった。
「アルベールが……アルベールのところに……」
そこで、子爵の目が閉じた。
意識を失ったのではなかった。眠りに落ちた。毒が薄まって、初めて訪れた、まともな眠りだった。
呼吸は、穏やかだった。
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エリオットが、街道沿いの詰所へ医者を呼びに行った。
ルシルは一人で、子爵の傍に座っていた。
窓のカーテンを、一枚だけ開けた。午後の光が、細く差し込んだ。
臙脂色の蝋印の切れ端を、手の中で、しばらく見ていた。
(……アルベール先生のところに、何かある)
アルベール先生の家は、すでに調べた。紙片を四十二枚、すべて持ち帰った。
しかし、見落としがあったのかもしれない。
(測れていないものが、まだある)
エリオットが医者を連れて戻ってきた。
ルシルは立ち上がり、子爵のベッドを医者に譲った。廊下に出た。エリオットが隣に並んだ。
「……アルベール先生の家に、もう一度行く必要がある」
「……ああ」
「見落としがあった、かもしれない」
「わかった。明日にするか」
「……ええ。今日は、もう遅い」
二人は、館の外に出た。
西の空に、夕暮れが広がり始めていた。
帰路の石畳を歩きながら、ルシルは手帳を開いた。
新しい頁に、書いた。
【臙脂色の蝋印。薬箱、奪取済み】
筆を止めた。
もう一行、書きかけた。
書かなかった。
手帳を閉じた。
エリオットが、歩きながらぽつりと言った。
「……子爵、助かりそうか」
「……ええ。早く来られて、よかった」
「セリーヌ嬢のおかげだな」
「……ええ」
ルシルは、少しだけ足を止めた。
西の空を、一度だけ見た。
施設のある方角だった。
(……セリーヌ)
声には出さなかった。
また歩き始めた。エリオットが、合わせた。
夕暮れの石畳に、二人の影が、薄く伸びた。
【後編 了】




