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『異端審問官ルシルの検死記録 ~没落令嬢は真鍮のメジャーで死体の嘘を測る~』  作者: w.t.


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第19話 「もう一人の名」

 朝の記録室は、静かだった。


 ルシルは机に向かい、昨夜から並べたままの紙片を、一枚ずつ測り直していた。

 書記長室特注の羊皮紙の断片が九枚。納品リストのつながった五枚。そして「ロワ」の三文字。


 メジャーを、チャキと一度鳴らした。


 扉が開いた。


「……おはよう」


 エリオットだった。手に、布包みを二つ持っていた。


「……おはようございます」

「昨夜、何時間眠った」

「……四時間」

「嘘だな」

「……三時間半」


 エリオットが、机の端に布包みを置いた。それから、引き出しをちらりと見た。


「砂糖煮の小瓶、仕舞ったのか」

「……明日も使う。計算済み」

「お前の計算は食事のときだけ正確だな」

「……食事は重要な変数」

「変数じゃなくて定数にしろ」

「……」


 エリオットが息を吐いた。それ以上は言わなかった。


 布包みを開けると、黒パンと、干し肉が入っていた。ルシルは黒パンを一口かじった。固い。引き出しを開けて、砂糖煮の小瓶を出した。少しだけ塗った。食べやすくなった。


「……出したのか」

「……朝は別枠」


 エリオットが、何か言いたそうにして、黙った。


 二人で黙って食べた。紙片と蝋燭の匂いが満ちた室内で、靴音ひとつしない朝だった。


---


 セリーヌの手紙を、もう一度読んだ。


「マーガレットが、昨夜、思い出したそうです」


 ルシルは立ち上がり、修道服の袖を整えた。


「……行く」

「ああ」


 エリオットが、黒パンの残りをそのまま口に入れた。


「朝飯は」

「……さっき食べた」

「三口だ」

「……三口は、食事の範疇」

「違う」


 ルシルはすでに扉を開けていた。


---


 王都の外れ、薔薇の垣根が絡む石造りの家。


 門を開けると、セリーヌが庭に出て待っていた。

 朝の光の中に立っていた。白い上着。結い上げた髪。垣根の薔薇と同じ色の頬。


「お姉様」


 ルシルは歩を止めた。


 セリーヌが、小走りで近づいてきた。門のところで、ルシルの修道服の襟を、さっと直した。乱れてもいなかった。ただの習慣だった。


「……ありがと」

「昨夜、眠れた?」

「……眠った」

「嘘ね」

「……エリオットも同じことを言った」


 セリーヌがエリオットを見上げた。


「エリオット様、おはようございます」

「おはようございます、セリーヌ嬢」

「お姉様、ちゃんと食べましたか」


「三口」


 とエリオットが答えた。


「……」


 とルシルが沈黙した。


 セリーヌが、くすりと笑った。それからルシルの手を、一瞬だけ握った。何も言わなかった。ルシルも何も言わなかった。

 握った手を、自然に離した。


「マーガレット、中でお待ちよ」


---


 居間の暖炉の前で、マーガレットは椅子に座っていた。

 ルシルたちが入ると、ゆっくりと顔を上げた。


「……お嬢様。よくいらしてくださいました」

「……こちらこそ。思い出してくださって、ありがとうございます」


 マーガレットが、暖炉の火に視線を戻した。しばらく、そのまま黙っていた。

 セリーヌが、隣の椅子に静かに腰を下ろした。エリオットは、壁際に立った。


 ルシルは、マーガレットの向かいに座り、手帳を出した。

 開かなかった。膝の上に置いただけだった。


「……お父様が、もうお一方、よくお会いになっていらした方がいらっしゃったと」

「はい」


 マーガレットが、ゆっくりと口を開いた。


「ロワズリー子爵様、とおっしゃいました」


 ルシルの手が、止まった。

 指の先が、わずかに冷えた。


(……ロワ)


 十五年前の納品リスト。行先の欄。三文字だけ残っていた文字。


(……ロワズリー)


 エリオットが、ルシルの横顔を、一瞬だけ見た。ルシルは前を向いたまま動かなかった。


「……ロワズリー子爵様と、お父様は、どのようなご関係でしたか」

「古いお友人でいらっしゃいました。商家上がりのご一代貴族で、ご身分は違いましたが……お父様は、ロワズリー様のことを、対等に話せる方だとおっしゃっておりました」

「……書簡のやりとりは」

「没落の少し前まで、ございました。最後のお手紙がいつだったか……もう、あまり覚えておりませんが」


 マーガレットが、膝の上の手を, 小さく握り直した。


「ただ、ロワズリー様が、ルイス様のことをとても心配しておられたのは、覚えております。何かあったら力になる、と……そういうお手紙を、最後まで送ってくださっていたと、ルイス様がおっしゃっておりました」


 ルシルは手帳を開いた。

 一行だけ書いた。


【ロワズリー子爵。父の旧友。没落直前まで書簡往来あり】


 筆を止めた。

 まだ、確信には足りない。


「……現在のご所在を、ご存知ですか」

「いいえ。五年ほど前に、お商売を畳まれたとは聞きましたが、その後は……」


 マーガレットが首を振った。


「私には、わかりかねます」


 ルシルは手帳を閉じた。立ち上がろうとした、その瞬間だった。


「……お姉様」


 セリーヌが、静かに言った。

 全員が、セリーヌを見た。


 セリーヌは暖炉の火を見ていた。少し、遠い目をしていた。


「……ロワズリー子爵様というお名前。わたくし、マーガレットから昨夜お聞きして、ずっと考えていたのだけれど」

「……ん」

「お母様の施設の近く。三ヶ月ほど前、お見舞いの帰りに……老紳士を、お見かけしたことがあったの」


 ルシルは、セリーヌを見た。


「……老紳士」

「ええ。杖をついていらした。帽子が、少し大きくて、耳まで隠れるくらい。歩き方が、左足だけ、少しだけ引きずっておられた」


 セリーヌが、ようやく暖炉から視線を戻した。


「わたくし、人の歩き方は、よく覚えるの。悲しそうな歩き方をしていらした。でも、慌ててもいなかった。どこかへ急ぐのではなくて……何かを、見届けに来たような、そういう歩き方だったわ」


 誰も、何も言わなかった。


「お顔は、はっきりとは見えなかったけれど。その方が、ロワズリー子爵様かどうかは、わからない。ただ――」


 セリーヌが、少し考えた。


「施設のあるあのあたりに、あの歩き方をする方は、いなかったと思うの。わたくしの、ただの感覚だけれど」


 ルシルは、セリーヌをしばらく見ていた。

 感覚は、数字にならない。

 しかしセリーヌの目は、いつも、数字より正確だった。


「……ありがと」


 セリーヌが、小さく頷いた。


---


 帰り際、セリーヌが玄関まで送ってきた。

 門のところで、ルシルの修道服の袖を、もう一度さっと引いた。


「お姉様」

「ん」

「気をつけて」


 昨日と同じ言葉だった。

 しかし今日は、昨日より少しだけ声が低かった。


 ルシルは、セリーヌの顔を見た。

 セリーヌは笑っていた。けれど目だけが、どこか、ルシルの少し先を見ていた。


 ルシルは、それを測らなかった。

 測れば、確定してしまう気がした。


「……ん」


 それだけ答えて、門を出た。

 エリオットが、後ろからついてきた。


 街道に出てから、エリオットが言った。


「セリーヌ嬢の、三ヶ月前」

「……ええ」

「子爵の所在を、調べる」

「……お願いします」


 二人の足音が、石畳に響いた。

 ルシルは手帳を開かなかった。

 開けば、書いてしまう。

 まだ、その時ではなかった。


【前編 了】

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