第18話 父の縫い目 『第四章 縫い目の所在』
朝の光が、記録室の窓から差し込んでいた。
ルシルは、机に向かっていた。
机の上には、昨夜並べたままの紙片があった。書記長室特注の羊皮紙の断片が九枚。私信の山。診療記録の写し。そして、机の中央に置かれた、父の便箋。
ルシルは一晩、ほとんど眠っていなかった。それでも、頭は冷えていた。
蝋燭は消えていた。代わりに、朝の光が机を照らしていた。
メジャーを取り出した。チャキ、と一度鳴らした。
仕事の音だった。
***
ルシルは、便箋の二枚目を手に取った。
昨夜、途中で止めた手紙。父の筆跡で書かれた、二枚目。ゆっくりと、続きを読んだ。
「アルベール、もしも私に何かがあったとき、これを開けておくれ。中身は、君に判断を任せる。ルシルとセリーヌが大きくなって、自分の足で歩けるようになるまで、君が守ってくれることを、信じている」
ここまでは、昨夜読んだ。その先が、続いていた。
「もしこの手紙を君が開けることになったとき、私はもうこの世にいないだろう。書記長室の人たちは、私が知ってしまったことを知っている。私は、近いうちに、何らかの形で消される」
ルシルの呼吸が、ごく短く、整った。驚きはなかった。予感していたことが、文字になっただけだった。
「彼らは、十五年前に、ある記録を改ざんした。私はそれを偶然、診療の場で知ってしまった。患者の薬の処方を巡って、おかしな書類が回ってきた。書記長室特注の羊皮紙だった。納入先の名前が、私の知る人物と一致していた。私は確認した。確認したことが、私の罪になった」
(……お父様)
「証拠は、薬箱の中に入れてある。私の薬箱は、君に預けた。鍵は、君も知っている場所に。私の妻も、娘たちも、薬箱のことは知らない。彼女たちを巻き込まないでほしい」
ルシルは、その一行をもう一度読んだ。
(……お父様。わたくしは、巻き込まれましたわ)
静かに、そう思った。それから、もう一度、便箋を取り上げた。続きが、まだあった。
「ルシルとセリーヌは、二人とも、私の自慢の娘だ。ルシルは、観察の目を持っている。セリーヌは、心を読む目を持っている。二人で、補い合えるはずだ。けれど、できることなら、二人がこのことに巻き込まれないことを、私は願っている」
「それでも、もしルシルがこの手紙を読むことになったとき。私は、こう書きたい」
ルシルは、便箋の最後の数行を読んだ。
「ルシル。お前の目は、間違っていない。お前が測ったものは、必ず、何かを語っている。お前が測れなかったものは、まだ測る時ではないのだ。父より」
ルシルは、便箋を閉じた。机の上に、丁寧に置いた。
それから、しばらく、机の木目を見ていた。
涙は、出なかった。出るような種類の感情ではなかった。胸の内側に、何か温かいものと冷たいものが、同時にあって、それらが混ざり合わずに並んでいる、そういう感覚だった。
(……お父様)
ルシルは、メジャーを巻き直した。仕事に戻る音だった。
***
紙片の納品リストを、もう一度見た。日付の欄に、十五年前の日付。月までは読めた。
(……二月)
父が処刑されたのは、十五年前の三月初旬。リストの日付は、二月の半ば。
(……処刑の、二週間前)
ルシルは手帳を開いた。新しい頁に、一行だけ書いた。
【父は、処刑の二週間前に、書記長室の不正記録を入手していた】
それから、もう一行。
【入手したから、消された】
手帳を閉じた。メジャーを、机の上に置いた。
便箋に、目を戻した。
「証拠は、薬箱の中」
「鍵は、君も知っている場所に」
(……鍵)
父は、アルベール先生に、薬箱の鍵を別の場所に隠したと書いていた。アルベール先生だけが知っている場所。
(アルベール先生は、昨日のうちに、殺された。鍵の場所を、お話しくださることは、もうない)
(しかし、薬箱は犯人に持ち去られた。犯人は、鍵を持っていない可能性が、高い)
(鍵がなければ、薬箱は開かない。少なくとも、簡単には)
(時間の猶予は、まだ、ある)
ルシルは、ゆっくりと息を吐いた。
(……お父様。ありがとうございます)
声に出さずに、つぶやいた。
***
扉が、軽く叩かれた。
「……ルシル」
エリオットの声だった。
「……入って」
扉が開いた。エリオットが、布で包んだものを持って入ってきた。
「朝飯だ」
「……今、いらない」
「いる」
「……一晩、考えていた」
「考えていたのは知っている。だから持ってきた」
エリオットが、布を机の端に置いた。湯気は立っていなかったが、温かさはあった。マーガレットの淹れた茶のような、穏やかな温度のものだった。
ルシルは布を開いた。中に、黒パンが二切れと、果実の砂糖煮の小瓶があった。ルシルは少し、目を開いた。
「……どこから」
「市場の途中で寄った店だ。修道院の近くの、昔からある店」
「……砂糖煮、わたくし、好き」
「知っている」
ルシルはエリオットを、一度見上げた。エリオットは何も言わなかった。
ルシルはパンを、一切れ、手に取った。一口かじった。固い。顎が痛い。砂糖煮を、少しだけ塗った。塗ると、固いパンが、急に食べやすくなった。
「……朝飯を食べたか、と聞かないでください」
「聞いていない」
「聞きそうな顔だった」
「俺の顔の判定は、お前の専門外だ」
「……いつもしている」
「事実を述べた」
エリオットが、机の脇の椅子に座った。
「……それで、何がわかった」
ルシルはパンを置いた。便箋を、エリオットに差し出した。
「……読んでいいのか」
「……ええ。読んでください」
エリオットは便箋を受け取り、黙って読んだ。読み終わるのに、しばらくかかった。
一枚目を読んでから、二枚目を読む前に、エリオットは一度、息を吐いた。
ルシルはそれを、横目で見ていた。エリオットが何を思ったか、ルシルには測れなかった。測れないことは、聞かないことに、している。
エリオットは、便箋を丁寧に折りたたんだ。机の上に、戻した。
「……お父さんは、立派な人だな」
「……ええ」
「お前のことを、よくわかっている」
「……ええ」
エリオットは、それ以上は言わなかった。ルシルもまた、それ以上は言わなかった。
ただ、パンの続きをかじった。今日は、二切れとも、最後まで食べた。
砂糖煮の小瓶は、机の端に置いておいた。次の朝にも、使えそうだったので。
***
午後になって、扉が、また叩かれた。今度は、局の使用人だった。
「ルシル様、お手紙が届いております」
「……ありがとうございます」
ルシルは扉のところで、手紙を受け取った。封筒の差出人を見た。セリーヌだった。ルシルは扉を閉め、机に戻った。エリオットが、椅子から立ち上がった。
「……セリーヌ嬢か」
「……ええ」
封蝋を割った。便箋を引き出した。セリーヌの字だった。丁寧で、まっすぐな文字。
『お姉様。
昨夜、マーガレットが、急に思い出したことがあるそうです。
お姉様がアルベール先生のお名前をお聞きになって、お帰りになった後、マーガレットがずっと、お父様のことを考えていらしたみたい。
そのときに、ふと思い出したのですって。お父様が没落の少し前に、もう一人、よくお会いになっていらした方がいらっしゃったそうなの。
その方のお名前を、マーガレットは思い出せないままだったのだけれど、昨夜、思い出したそうです。
直接、伺ってあげてほしい、と申しております。
マーガレットは、お元気でいらっしゃいます。ご心配なさらないで。
ただ、できるだけ、お早めに。
セリーヌ』
ルシルは、便箋をゆっくりと机に置いた。エリオットが、横から覗き込んでいた。
「……もう一人、いたのか」
「……ええ」
「アルベール先生のほかに」
「……ええ」
ルシルはメジャーを、巻き直した。それから、手帳を開いた。新しい頁に、一行だけ書いた。
【マーガレットを、もう一度訪ねる】
それから、もう一行。
【父は、もう一人、信頼していた人がいた】
手帳を閉じた。机の上の便箋を、二つとも、修道服の懐に入れた。父の便箋と、セリーヌの便箋。両方を、心臓のあたりに収めた。
「……エリオット」
「ん」
「明日、また、マーガレットの家へ」
「ああ」
「……今夜は、紙片を、もう一度測り直します」
「夜のうちに、か」
「……ええ。明日の朝、何も持たずに行きたくありません」
エリオットが頷いた。
ルシルは立ち上がった。窓の外、午後の光が、まだ高かった。
紙片を、布の袋に分けた。書記長室特注の羊皮紙の断片九枚。納品リストの五枚。残りの私信類。それぞれを別の袋に。最後に、机の端の砂糖煮の小瓶を、引き出しに仕舞った。
引き出しを閉める前に、一度、その小瓶を見た。明日も、その次の日も、しばらく食事は続く。砂糖煮があれば、固い黒パンも、食べやすくなる。
そういう、簡単なことだった。
ルシルは引き出しを閉じた。扉に向かう途中で、エリオットが言った。
「……ルシル」
「ん」
「お前が測れなかったものは、まだ測る時ではない、だそうだ」
「……ええ」
「いい言葉だな」
「……ええ」
ルシルは、それだけ答えて、扉を開けた。
廊下の光が、午後の色に変わっていた。西に向かう街道が、まだ、もう一度、自分を待っている気がした。




