第18話 父の縫い目 『第一章 マーガレットの庭』
王都の外れに、小さな家があった。
石造りの古い平屋。手入れの行き届いた庭。垣根に薔薇が絡んでいた。母が療養している施設から、歩いて十五分ほどの距離にある。
ルシルは門の前で、立ち止まった。
修道服の袖を、無意識に整えていた。
「……入らないのか」
エリオットが、後ろから言った。
「……入る」
「立ち止まったままだが」
「……今、入るところ」
ルシルはエリオットを一度見上げた。それから門に手をかけた。
きしむ音がした。乳母のマーガレットは、何度も「あの蝶番、直さないとねえ」と言っていた。それを十年聞いた。だが結局、直されないまま今日まで来ていた。
(……マーガレットは、変わらない方を選びますの)
ルシルは庭に入った。
薔薇の香りがした。母の屋敷の庭にも、同じ薔薇があった。没落の年に手放した屋敷だ。マーガレットは、新しい家にも同じ品種の苗を植えた。それも、十年前のことだった。
玄関の扉が開いた。
「あら――」
セリーヌだった。
午後の光の中で、白いエプロンドレスを着ていた。手に、籠を持っていた。籠の中に、摘んだばかりの薔薇が三本。
「お姉様」
セリーヌがにっこりした。
「いらっしゃるって、お手紙にも何にもなかったのに」
「……朝決めた」
「相変わらずなんだから」
セリーヌが籠を玄関の脇に置いた。それから、ルシルに駆け寄った。
ルシルは半歩、後ずさった。
「……抱きつかれると、計測がずれる」
「お姉様、今、何も測ってないでしょう」
「……心の中で、測ってる」
「ふふ」
セリーヌがルシルの両肩に手を置いた。それから、しばらくルシルの顔を見た。
ルシルは目を逸らさなかった。逸らすと、セリーヌに何かを当てられる。逸らさないようにしても、結局当てられる。それは経験から、わかっていた。
「……お姉様」
「ん」
「何か、お困りごと?」
ルシルは答えなかった。
「お顔に書いてあるわ」
「……書いてない」
「書いてある」
エリオットが後ろで、小さく息を吐いた。
「……ルシル、お前の顔は、本人が思っているより色々書いてあるぞ」
「……エリオット」
「ん」
「裏切り」
「裏切ってない。事実を述べた」
セリーヌが笑った。
「エリオット様、いつもありがとうございます。お姉様の、計測の補佐」
「……俺は計測の補佐ではないが」
「あら、では何をなさっているの」
エリオットが少し黙った。
「……護衛だ」
「ふふ、同じことよ」
セリーヌがルシルの手を取った。今度は、ルシルも引かなかった。
「お入りになって。マーガレットも、お姉様にお会いしたがっていたから」
***
家の中は、静かだった。
居間の暖炉に火が入っていた。少し早い時刻だが、マーガレットの足腰は近頃、寒さに弱いのだとセリーヌが小声で教えてくれた。
ルシルは暖炉の前の椅子に座った。エリオットは、扉の脇の壁に背を預けた。
「マーガレット、お姉様がお見えよ」
奥から、ゆっくりとした足音がした。
マーガレットだった。
六十代後半。背は丸くなっていたが、目はまっすぐだった。エプロンの裾を整えながら、居間に入ってきた。ルシルを見た瞬間、目尻に皺が深く寄った。
「ルシルお嬢様」
「……マーガレット。お変わりありませんか」
「お変わりありませんよ。私は、いつもの通り」
マーガレットがルシルの前に立った。じっとルシルの顔を見た。
「……痩せましたねえ」
「……痩せていません」
「痩せました」
「……三キログラム以内の変動は、誤差の範囲」
「お嬢様、誤差で済む顔色ではありませんよ」
ルシルは答えなかった。マーガレットには、勝てたためしがなかった。子供のときから、そうだった。
セリーヌが横で、こらえきれないように笑った。
「マーガレット、お姉様が三秒で論破されたわ」
「論破されてない」
「されたわ」
エリオットが、壁の方を向いて肩を震わせていた。
ルシルは無言でメジャーを取り出しかけた。が、セリーヌの目に気づいて、しまった。
セリーヌの前では、計測器具を出さない。それは、ルシルが決めていることだった。理由は、自分でもよく説明できない。ただ、出したくなかった。
「……お茶を、いただいてもいいかしら」
「もちろんですよ」
マーガレットが台所に消えた。
セリーヌがルシルの隣に座った。少しだけ、肩を寄せた。
「お姉様」
「ん」
「今日は、お話があっていらしたのでしょう」
ルシルは、しばらく暖炉の火を見ていた。
「……ええ」
「お父様のこと?」
ルシルは少し驚いた。表情には出さなかったつもりだったが、セリーヌは気づいたらしい。
「ふふ、当てたわ」
「……どこで」
「玄関で立ち止まっていらしたから」
「……それだけで」
「お姉様が、ためらって入っていらっしゃるときは、たいていお父様かお母様のお話なのよ」
ルシルは答えなかった。
セリーヌは続けなかった。マーガレットがお茶を運んでくるまで、二人は黙って暖炉を見ていた。エリオットも何も言わなかった。
***
お茶が出た。マーガレットが淹れた、温かい茶だった。セリーヌが砂糖壺をルシルの前に押した。
「お姉様、二つよ」
「……一つで足りる」
「二つ」
セリーヌが砂糖を二つ落とした。ルシルは抗議しなかった。
「マーガレット」
ルシルは、温かいカップを両手で包んだ。
「……お父様の同僚で、まだ生きていらっしゃる方を、ご存じないかしら」
マーガレットの手が、エプロンの裾を整える動きで止まった。
ほんの一瞬だった。
それから、マーガレットは静かに椅子に座った。
「……何のお話ですか、お嬢様」
「……お父様のお仕事のことを、伺える方を、探しております」
マーガレットはルシルを見た。長く見た。
ルシルは、その目を逸らさなかった。
マーガレットが、ふっと息を吐いた。それから、暖炉の火に視線を移した。
「……アルベール先生、ですよ」
エリオットの姿勢が、壁際で、わずかに正された。
「……アルベール先生」
「アルベール・モロー先生。お父様と、一番親しくしていらっしゃった方です。お父様より十ほど年上で、王都の医院をご一緒なさっていました」
ルシルは手帳を出さなかった。出すべき場面ではなかった。マーガレットは記録される側ではなかった。
「……今、どちらに」
「王都の郊外に、お住まいです。お父様のことがあってから、医院を畳まれて、引退なさいました」
「……お住まいの場所は」
「西の街道を出て、橋を渡ってすぐの、青い屋根のお家ですよ。住所で言えば――」
マーガレットが正確な住所を言った。ルシルは聞きながら、頭の中に書き写した。
「……マーガレット」
「はい」
「アルベール先生は、お父様から、何かを預かっていらっしゃいますか」
マーガレットが、また少し黙った。
それから、静かに頷いた。
「……はっきりとは存じません。ですが、お父様が没落の少し前に、何度か夜、ひっそりとお出かけになりました。革鞄をお持ちでした。何度かは」
「……」
「お帰りのときは、手ぶらでした」
ルシルは答えなかった。
「アルベール先生のお家のあたりへ、向かわれていたようでした。私が直接お見かけしたわけではありません。ただ、馬車のご手配を聞いたことが、ございましたので」
「……何度くらい、お出かけに」
「三度か、四度ほどだったかと」
マーガレットは、しばらく暖炉の火を見ていた。
「……最後にお出かけになった日のあとで、お父様は、私にこうおっしゃいました」
「……何と」
「『マーガレット、もしも何かがあったら、ルシルとセリーヌのことを頼むよ』と」
ルシルは答えなかった。
カップの中のお茶が、わずかに揺れた。手が震えたわけではなかった。ただ、暖炉の火が傾いただけだった。そういうことに、しておきたかった。
「……ありがとうございます、マーガレット」
「お嬢様」
「……ん」
「アルベール先生は、お年を召していらっしゃいます。お訪ねになるなら、お早めに」
「……はい」
ルシルは頷いた。
セリーヌが、ルシルの手の上に、自分の手をそっと重ねた。何も言わなかった。ルシルも、何も言わなかった。
***
夕方近くになって、ルシルは席を立った。
セリーヌが玄関まで送ってきた。マーガレットも、ゆっくりと歩いてきた。
「お姉様、また来てちょうだい」
「……ん」
「お手紙だけでもいいから」
「……書く」
「ふふ、嘘」
「……書く」
「お姉様の『書く』は、半年に一度だわ」
ルシルは答えられなかった。事実だったので。
エリオットが、玄関で軽く頭を下げた。
「お邪魔しました」
「エリオット様、お姉様をお願いしますね」
「ああ」
セリーヌがルシルの修道服の袖を、軽く引いた。
「お姉様」
「ん」
「お父様のお話を聞きに行かれるのよね」
「……ええ」
「アルベール先生のお家へ」
「……ええ」
セリーヌは少しの間、何も言わなかった。それから、視線をふと、玄関の外へ向けた。
夕方の光が、薔薇の垣根を斜めに照らしていた。
「お姉様」
「ん」
「お気をつけて」
ルシルは、セリーヌの顔を見た。
セリーヌは笑っていた。いつものように。けれど、目だけが笑っていなかった。
ルシルは、それ以上聞かなかった。聞けばセリーヌが答えてしまう、と思った。答えてしまえば、それは確定してしまう。
「……ん。ありがと」
それだけ言って、ルシルは門を出た。
エリオットが後ろからついてきた。
街道の方へ向かって、しばらく歩いた。
「……ルシル」
「ん」
「セリーヌ嬢、何か言ってたな」
「……お気をつけて、と」
「ああ」
「……いつもの挨拶」
「いつもの挨拶ではない顔だったが」
ルシルは答えなかった。
少しだけ、歩調が早くなった。
エリオットも何も言わず、それに合わせた。
西の空に、夕暮れの色が広がりかけていた。
橋まで、あと十分ほどだった。
ルシルは手帳を開かなかった。
開く必要は、まだなかった。




