第18話 父の縫い目 『第二章 青い屋根の家』
橋を渡るころには、夕暮れが本格的に降りていた。
王都の西街道は、橋を境に景色が変わる。石畳が途切れ、土の道になる。両脇に低い生垣が続き、その向こうに小さな農家が点在していた。
「……青い屋根」
エリオットが言った。
「……ん」
「あれだろう」
街道から少し外れた小道の先に、青い瓦屋根の平屋が見えた。マーガレットの言った通り、橋を渡ってすぐの場所だった。
ルシルは歩調を保ったまま、その家を見ていた。
(……灯りが、ない)
夕暮れのこの時刻、老人が一人で住んでいる家なら、台所か居間に灯りがあるはずだった。だが、青い屋根の家の窓は、すべて暗かった。
「……エリオット」
「ん」
「灯り」
「……ない」
二人の歩調が、自然と揃った。
小道に入った。家の前の生垣に、薔薇が絡んでいた。マーガレットの庭と、同じ品種に見えた。
ルシルは生垣の途中で、足を止めた。
(……薔薇が、踏まれている)
地面の薔薇の落ち花が、何かに踏みつけられて潰れていた。一輪ではなかった。複数。点々と、家の方へ向かう動線で。
エリオットも気づいたらしい。
「……人が通った跡だな」
「……ええ」
「最近か」
「……数時間以内」
「根拠は」
「花弁の縁、まだ赤い。乾いていない」
ルシルはメジャーを取り出さなかった。今は、出すべき場面ではなかった。出せば、この家に「事件現場として入る」ことになる。まだ、そう決まったわけではない。
そう思いながら、扉に近づいた。
扉は、半開きだった。
ルシルは扉の前で、もう一度、立ち止まった。
「……エリオット」
「ああ」
エリオットが、ルシルの前にすっと出た。剣には手をかけなかった。だが、立ち方が変わっていた。重心が前に寄っていた。
「俺が中を確認する」
「……ええ」
エリオットが扉を、もう少し押し開けた。蝶番が、低く軋んだ。
家の中は、暗かった。
夕暮れの光が、開いた扉から斜めに差し込んでいた。その光の中に、廊下が見えた。床に、何かが散らばっていた。紙だ。書類のような紙片が、無造作に。
エリオットが先に入った。ルシルが続いた。
廊下を進んだ。突き当たりに、扉が一つ。半開き。エリオットが片手で押した。
書斎だった。
机。書棚。椅子。そして――。
椅子の下に、人が倒れていた。
老人だった。痩せた体。白髪。眼鏡が床に落ちていた。
ルシルは扉のところで、立ち止まった。
(……アルベール先生)
会ったこともない人だった。マーガレットの口から、名前を聞いただけの人だった。それでも、その人だと、わかった。
「……エリオット」
「ああ」
エリオットが部屋の周囲を素早く確認した。窓は閉まっていた。剣に手をかけたまま、ルシルに頷いた。
「……他に誰もいない」
ルシルは部屋に入った。
机の上に、飲みかけのお茶があった。白い陶器のカップ。半分ほど残った茶。湯気は、もう立っていなかった。
メジャーをチャキと、一度鳴らした。
仕事の音だった。
***
ルシルは老人の前に膝をついた。
(……仰向け。椅子から滑り落ちた姿勢に近い)
死斑の位置を確認した。仰向け、整合。死後硬直、推定四から六時間。
顔色は穏やかだった。苦悶の表情はない。手は胸の前に置かれていた。一見、心臓発作で倒れたままの姿勢に見えた。
ラッシュなら、ここで「自然死」と書く。
ルシルは、それを書かない。
老人の右手を、そっと持ち上げた。指先を見た。爪を見た。
(……青く、ない)
トリカブトの痕跡はなかった。それなら、別の毒。
唇の端を、丁寧に確認した。乾いた粘膜の、わずかな変色。淡い、紫がかった色。
(……青みは出ていない。トリカブトではない。唇の紫変は、もっとゆっくり効く別の毒。植物由来のはず)
懐からガラスペンを出し、修道服の袖に書きつけた。
【唇・紫変・遅効性・植物毒】
机の上の茶碗に、メジャーを当てた。残った茶の表面に、ごく薄く油膜が浮いていた。普通のお茶には、こうは浮かない。
(……何かが、混ぜられている)
ルシルは茶碗を、丁寧に持ち上げた。中身を、別の小瓶に移した。鞄の中に、いつも空瓶を二、三本入れてある。
「……エリオット」
「何だ」
「これ、局に持ち帰る」
「証拠か」
「……ええ。検出すれば、毒物の種類がわかる」
「自然死じゃないんだな」
「……ええ」
ルシルは立ち上がった。
遺体の検視を一段落させて、ルシルは初めて部屋全体を見渡した。
書棚の本が、何冊か、引き出されていた。引き出されて、読まれた跡ではない。抜き取られて、戻されていない。本のあるべき場所に、隙間が空いている。
机の引き出しが、わずかに開いていた。完全に閉まっていない。
廊下の紙片。書類が散らばっていた、あの紙片。
(……荒らされている)
ただし、派手にではなかった。慎重に、何かを探した跡だった。引き出しは開けたが、中身を全部床にぶちまけたわけではない。本は抜いたが、書棚を倒したわけではない。
(……目的のものがあって、それを探した。見つけた、もしくは、見つからなかった)
ルシルは机に近づいた。机の表面を観察した。
埃が、薄く積もっていた。一部だけ、埃が払われていた。長方形に。横、四十センチ。縦、三十センチほど。
(……何かが、置かれていた)
エリオットが横から覗き込んだ。
「……ここに、何かあったのか」
「……ええ。最近まで」
「どのくらいの大きさだ」
「四十センチ、三十センチ。厚みは、埃の境界からは判別できない」
「……持ち去られたか」
「……可能性、高い」
ルシルは机の埃の境界を、メジャーで丁寧に測った。手帳に、長方形を写した。
(……アルベール先生は、机の上に何かを出していた。それを、犯人が持ち去った)
(毒で殺してから、ゆっくり探した。お茶を飲ませて、効くまで待って、倒れたあとで、家の中を慎重に調べた)
(時間に、追われていなかった)
ルシルは老人の遺体を、もう一度見た。
胸の前に、両手が置かれていた。一見、自然な姿勢。
しかし――。
(……不自然)
心臓発作で倒れた人の手は、こうは置かれない。苦しんで、胸を掻きむしるか、椅子の縁を掴むか、床に投げ出すか。胸の前に、丁寧に重ねられることは、ない。
(……整えられている)
犯人が、整えた。自然死に見えるように。
ルシルはメジャーを、巻き直した。
「……エリオット」
「ん」
「アルベール先生は、殺されました」
「……ああ」
「毒物。混入経路は、お茶。遺体は、自然死に見せかけるため、犯人が姿勢を整えた」
「……動機は」
「……机の上にあった、四十センチ×三十センチの何か」
ルシルは、机の埃の長方形を、もう一度見た。
胸の内側で、何かが冷たく沈んだ。その沈み方には、覚えがあった。書記長室特注の羊皮紙を、初めて手に取ったときと、同じ沈み方だった。
(……これは、まだ、確定ではありませんわ)
(測れていないことが、まだあります)
ルシルは、手帳を開かなかった。開けば、書いてしまう。書いてしまえば、それは確定する。
「……エリオット」
「ん」
「他の部屋も、見ます」
「……寝室と、台所か」
「ええ」
「俺が先に入る」
ルシルは頷いた。
書斎を出る前に、もう一度だけ、老人の遺体を見た。
会ったこともない人だった。それでも、丁寧に整えてあげたい、と思った。
ただし、まだ、その時ではなかった。
事件のすべてを測り終えてから。整えるのは、最後にする。
それが、ルシルの順番だった。
***
寝室は、整然としていた。
ベッドは、きちんと整えられていた。今朝、起きた後にきちんと整えた跡だった。寝具に乱れはない。
(……アルベール先生は、今朝までは、普段通りの生活をしていた)
枕元に、小さな本が一冊、置かれていた。古い詩集だった。表紙が擦り切れていた。長年、読まれていた本だ。
ルシルは詩集には触れなかった。
寝室を出た。
台所も、整然としていた。流しに、洗ったカップが二つ、伏せて置かれていた。
ルシルは、その二つのカップを、しばらく見ていた。
「……エリオット」
「ん」
「カップが、二つ」
「……来客、か」
「……可能性、高い」
「いつのものかは」
ルシルはカップを手に取った。乾いていた。完全に。
「……今朝、洗われたもの。昨日以前ではありません」
「……来客があったのは、今朝か、昼か」
「……お茶を飲んだあと、洗ってしまったのね」
ルシルはカップを、もとの位置に戻した。
「……片方が、犯人」
「ああ」
「アルベール先生と、犯人が、ここでお茶を飲んだ。アルベール先生のお茶に、毒が入っていた」
「……そして犯人は、自分のカップを洗って、書斎に戻り、目的のものを持ち去った」
「……ええ」
ルシルは台所の窓から、外を見た。
夕暮れが、もう深くなっていた。
「……時間が、合います」
「ん?」
「机の上の、飲みかけのお茶。遺体の死後硬直の進み具合。今朝、人が訪ねてきて、お茶を飲み、毒を仕込んで帰った。アルベール先生は、午前のうちに倒れた」
「……それから今まで、誰も気づかなかった」
「……一人暮らしですわ.マーガレットも、『お年を召していらっしゃる』と」
ルシルは少し、視線を落とした。
(……間に合わなかった)
それは、口にしなかった。
エリオットが、ルシルの肩のあたりに、ふっと視線を寄せた。何も、言わなかった。
***
書斎に戻った。
ルシルは、もう一度、老人のそばに膝をついた。
懐から黒い絹糸と、細い針を取り出しかけた。
止めた。
(……まだ、早い)
縫い終えれば、それで終わりになる。だが、この事件は、まだ終わっていなかった。
机の上の長方形の痕。書棚の隙間。廊下の紙片。測るべきものが、まだあった。
ルシルは針と糸を、懐に戻した。
代わりに、メジャーをチャキと一度鳴らした。
「……アルベール先生」
声に出した。誰に聞かせるためでもなかった。
「……お父様から、何を、お預かりでしたの」
返事は、ない。
死者は、嘘をつかない。だが、何も言わない。何かを言ってもらうには、こちらが測るしかなかった。
ルシルは立ち上がった。
「……エリオット」
「ん」
「明日、もう一度ここに来ます。今夜は、これで」
「証拠は」
「……お茶の小瓶。机の埃の長方形の写し。それと――」
ルシルは、廊下の方を振り返った。
「……廊下の紙片。それを、全部」
「持ち帰るのか」
「……拾える分だけ」
エリオットが頷いた。
ルシルは、手帳をようやく開いた。
新しい頁に、一行だけ書いた。
【アルベール・モロー医師、毒殺。動機、机上の何か】
それから、もう一行。
【机上の物体:縦三十・横四十センチ。薬箱の標準寸法、と一致する】
ルシルは手帳を閉じた。
外は、すっかり夜になっていた。
玄関の方で、何かが、軋んだ。
エリオットが振り返った。
「……風だ」
ルシルは、答えなかった。




