第17話 祈祷書の青
朝の記録室で、ルシルは砂糖商の帳簿を広げていた。
二十年前の頁。欄外の小さな書き込み。「特注羊皮紙一束、受領」。
(……この一行から、何本の糸が伸びているのでしょう)
メジャーを指に巻きつけ、文字の長さを測った。意味があるかと聞かれれば、ない。ただ手を動かしていないと、考えがまとまらない。
扉が開いた。
「ルシル」
エリオットだった。珍しく、息が上がっていた。
「……走った?」
「南区の修道院で死人が出た。聖アガタ」
「……朝早くから、ご苦労なこと」
「王都警察が先に動いてる。ラッシュだ」
ルシルの手が、止まった。
「……ラッシュ殿」
「先週の晩餐会で、お前のことを話題にしてたらしい。今日は譲らないつもりだ」
「……そう」
ルシルは帳簿を閉じた。鉛筆を置いた。
(……縦糸を、追いたかったのに)
それは口にしなかった。
立ち上がり、修道服の袖を整えた。メジャーをチャキと一度鳴らした。
「行く」
「朝飯は」
「……後で」
「お前のその『後で』が、いつも昼を過ぎるんだが」
「……エリオットの記憶力、よろしくない」
「俺の記憶は正常だ」
ルシルは答えなかった。先に扉を出た。
***
聖アガタ修道院は、王都南区の坂の中腹にあった。
石造りの古い建物。鐘楼が朝の光に白く照らされていた。正門の前に、王都警察の馬車が二台停まっている。
正門をくぐった瞬間、聞き覚えのある声が降ってきた。
「やあ、これは記録官殿。ようやくお出ましか」
ガストン・ラッシュだった。
四十代後半。白髪交じりの髪を几帳面に撫でつけ、勲章を三つつけている。前回の墓地の事件で、ルシルに完全に論破された男だ。それでも、毎度ルシルを見るたびに胸を反らす癖は変わらなかった。
「……おはようございます、ラッシュ殿」
「私は今朝六時から現場におる。今日は譲らんぞ」
「……朝、お早いですね」
「私は朝食を抜いてでも仕事をする男だ」
エリオットがルシルの後ろで、小さく息を吐いた。
「……ルシル」
と、声を落とした。
「お前は朝飯抜くとフラフラになるけどな」
ルシルがエリオットの騎士服の袖を、目立たないようにキュッと引っ張った。エリオットが、口を閉じた。
「……悪い」
ラッシュは聞こえていなかった。すでに修道院の中へ歩き出していた。
「こちらだ、記録官殿。今回の件は単純明快――異端の儀式による神罰死だ。すでに記録は書き上げた。あとは異端審問局として、ご確認いただくだけで結構」
「……書き上げた」
「ああ」
「……記録を、現場検証より先に」
「現場を見て、すぐにわかった。経験というやつだ」
ルシルは答えなかった。ただ、メジャーをもう一度、チャキと鳴らした。
***
写本部屋は、修道院の北側の奥まった一室だった。
天井が高い。窓は小さく、北向きで光が安定している。写本に最適な部屋だった。
中央に二つの机が向かい合わせに置かれ、そのうちの一つの脇に、白い経帷子を被せられた遺体が横たわっていた。
修道女、二十二歳。名はセシル。
ラッシュが胸を反らした。
「ご覧の通り、神罰により喉を焼かれて死んだ。床に割れたカップは聖水だ。聖水を口にした瞬間、異端の魂が罰を受け、苦しんで倒れた。明白だろう」
ルシルは経帷子を、自分の手でそっと外した。
死斑の位置。仰向け、整合。死後硬直の進行、推定六時間から八時間。ここまでは、ラッシュも合っている。
問題は、その先だった。
ルシルは遺体の指先に顔を近づけた。
(……青い)
人差し指と中指の先端に、ごく淡い青色の染みがあった。インクではない。インクならもっと濃い藍色になる。これは、もっと薄い、植物の汁のような青だ。唇の端にも、同じ色の痕。
(……トリカブトの根は、すりおろすと青みを帯びる。乾くと色は薄れるが、絞り汁のままなら、この色が残る)
ルシルはメジャーで染みの範囲を計測した。指のどの位置に、どの程度の濃度で残っているか。ガラスペンを取り出し、修道服の袖に走り書きした。
「記録官殿。何を見ておる」
ラッシュが背後から覗き込んだ。
「……指の染み」
「インクだろう。写本中だ」
「……インクは、もう少し濃い色になります」
「では何だと言うのだ」
ルシルは答えなかった。代わりに、床に視線を移した。
割れた陶器のカップ。茶色の素焼き。破片が三つに分かれ、その周囲に水が広がっている。水の広がり方が、不自然だった。
ルシルは床にしゃがみ、メジャーで水の飛散距離を測った。割れたカップの位置から、最も遠い水滴まで――七十八センチ。
(……倒れただけでは、ここまで散らない)
破片の一つを拾った。内側に、薄く青い残留物がついていた。
それから、机の上を見た。机の上にも、カップがあった。こちらは無傷。中身は空。
「……ラッシュ殿」
「なんだ」
「机の上のカップは、どなたのものですか」
「院長代理のベルナデット殿のものだそうだ」
「……中身は」
「とうに飲み終えていたとか」
「……お茶ですか」
「そうだ」
ルシルは机のカップを手に取った。内側を、光の角度を変えながら見た。何もなかった。青い残留物は、ない。それどころか――。
(……お茶の輪染みも、ない)
カップの内側に、液面の縁に残るはずの薄い茶色の輪が、見当たらなかった。
(……飲み終えたカップなら、輪が残る。すすいだとしても、表面の質感が変わる)
(このカップは、お茶が注がれていない)
カップを置いた。立ち上がった。
写本中の羊皮紙が、机の端に置かれていた。ルシルはそれを手に取った。紙質を確かめた。指先で、表面を撫でた。
(……これ)
胸の内側で、何かが冷たく沈んだ。
書記長室特注の、あの羊皮紙だった。封筒、改ざん記録、砂糖商の帳簿の余白。同じ繊維。同じ厚み。同じ独特の艶。
(……なぜ、修道院の写本部屋に)
「記録官殿、何を黙っておる」
「……ラッシュ殿」
「ん」
「物質に、嘘はつけませんの」
「何の話だ」
「……まだ、申しません」
ルシルはメジャーを巻き直した。
***
院長代理のベルナデットが、写本部屋に呼ばれた。
四十代半ば。やせた女性で、頬がやつれていた。目の下に隈があった。一晩中眠れなかった顔だった。
「……このたびは、心からお悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
「セシルさんは、熱心な修道女でしたね」
「……ええ。とても」
ベルナデットの声は静かだった。涙は出ていなかった。ただ、声が掠れていた。
「写本作業は、お二人だけで」
「はい。朝の祈祷の前に、二人で。セシルが私の助手のような形で」
「カップは、お茶ですか」
「ええ。セシルが自分で淹れました。私の分も」
「……お二人で、同じお茶を」
「同じです。同じ薬缶から、同じ茶葉で」
ルシルは手帳に書き写した。書きながら、机の二つのカップを、横目で見ていた。
「……ベルナデットさん」
「はい」
「あなたのカップ、お茶を飲んだ痕跡がありませんが」
ベルナデットの肩が、わずかに動いた。
「……飲み終えました。だから、空でございます」
「飲み終えたカップには、液面の縁に薄い輪が残るはずですわ。すすいでも、内側の質感は変わります。ですがこのカップは、もとから何も注がれていないように見えます」
「……すすぎました。今朝、騒ぎが起きる前に」
「……それは、結構ですね」
ルシルは手帳を一行書き足した。それから、別のことを尋ねた。
「写本作業中の羊皮紙、これを拝見してもよろしいですか」
「……どうぞ」
ルシルは机の端の羊皮紙を、改めてベルナデットに見せた。
「これは、書記長室特注の羊皮紙ですね」
ベルナデットの顔が、わずかに白くなった。
「……いえ。これは、修道院に納品されたものでございます。普通の納入品です」
「……書記長室特注の羊皮紙が、なぜ修道院に納品されますの」
「私には、わかりかねます。納品業者が……」
「修道院の祈祷書写本に、特注品を使う規定はありません。納入帳簿を確認してもよろしいですか」
ベルナデットの声が、少し早くなった。
「……それは、後ほど、私の方で整理してから――」
ラッシュが横で、眉をひそめた。
「記録官殿、紙の話と神罰の話は別だろう」
「……同じ話ですわ、ラッシュ殿」
ルシルはラッシュを見た。
「神罰は、毒の代謝経路を辿りますの?」
「……何を言っている」
「セシルさんの指先と唇の青い染みは、トリカブトの根を絞った汁の痕跡です。植物毒のうち、絞り汁の段階でこの青を帯びるのは、トリカブトに限られます」
ルシルは床の破片を拾い上げた。
「割れたカップの内側にも、同じ残留物。机の上のベルナデットさんのカップには、何も残っていない。同じ薬缶から同じ茶葉で淹れたなら、両方のカップに同じ茶渋と輪染みが残るはずです。残っていないということは――」
ルシルはベルナデットを見た。
「ベルナデットさんのカップには、最初から、お茶が注がれていなかった」
ベルナデットが、机の縁に手をついた。
「違います。私は、本当に、飲んだ後にすすいで――」
「では、もう一つ」
ルシルは床の水の広がりを示した。
「割れたカップから、水滴が七十八センチ離れた位置まで散っています。倒れただけでは、ここまで散らない。これは、振り払った痕跡ですわ。苦痛による反射です。神罰でしたら、カップは静かに置かれたままのはずですの」
ラッシュは、何も言えなかった。ルシルはベルナデットに向き直った。
「あなたは、セシルさんが淹れたお茶のうち、ご自分のカップにはお茶を注がず、セシルさんのカップにだけ汁を混ぜた。空のカップだけが、机の上に残った。すすぐ前から、もとから空でしたのね」
ベルナデットの体が、震え始めた。それでも、彼女はもう一度、口を開いた。
「……違います。違います。私は、ただ……」
「……動機は、この羊皮紙ですわね」
ルシルは羊皮紙を、もう一度手に取った。
「修道院の納入帳簿には、必ず納品の記録が残ります。確認すれば、書記長室特注品の出入りが、いつから、何束、どこへ流れたかが、すべて出てまいります」
ベルナデットの肩が、深く落ちた。何かが、内側で折れた音がしたように見えた。
「……三年前、です」
声が、震えていた。
「あの子が、紙の質に詳しくて。私が新しく入れた羊皮紙を見て、『これは普通のものではない』と。三日前に、私に問いただしました。なぜこんな紙がここにあるのかと」
「……」
「私は、断れませんでした。指示があったんです。書記長室から。在庫を、月に一度、修道院経由で別の場所へ送るようにと。送り先は知りません。馬車が来て、運んでいくだけです」
「……あなたの一存ではないと」
「セシルは……密告すると、言いました。私は、明日にも修道院を追われ、家族を路頭に迷わせる。あの子は何も悪くないのに、私が……」
ベルナデットが、椅子に崩れるように座り込んだ。
ルシルは何も言わなかった。ただ、メジャーを一度、チャキと鳴らした。
「……雑な嘘。死体は、そんな嘘はつきませんわ」
ルシルはセシルの遺体のそばに膝をつき、懐から黒い絹糸と細い針を取り出した。写本作業中の姿勢で乱れた経帷子の合わせを、無言で縫い合わせ始めた。
丁寧に。ひどく丁寧に。
(死者だけは嘘をつかない。だから、せめて最後は美しく整えませんと)
縫い終えるまで、誰も声をかけなかった。ベルナデットの肩が震える音と、針が布を通る音だけが、写本部屋に残った。
***
外に出ると、修道院の中庭は午後の光に満たされていた。
ベルナデットは王都警察に連行されていった。羊皮紙と、机の上の空のカップは、異端審問局が押収した。
ラッシュは正門のところで、ルシルを待っていた。
「……記録官殿」
「……ラッシュ殿」
「……今日は、また譲らされたな」
「……物質が、申しただけです」
ラッシュは小さく息を吐いた。それから、馬車に向かって歩き出した。途中で振り返り、片手を挙げた。
「……記録官殿。また会おう」
ルシルは答えなかった。ラッシュの馬車が、坂を下りていった。
エリオットが、ぽつりと言った。
「……あの人、毎回同じ台詞だな」
「……三回目」
ルシルは手帳を取り出し、最後の頁にひっそり書いてあった数字に、もう一画足した。「正」の字の、四画目。
エリオットが覗き込んだ。
「……お前、数えてたのか」
「……記録」
「いつから」
「……一回目から」
エリオットが、息を吐くように笑った。ルシルは手帳を閉じた。
***
修道院を出て、王都の坂を下りた。
夕暮れには、まだ少し早い時刻だった。石畳に、二人の影が薄く伸びていた。
ルシルは歩きながら、頭の中で数字を並べていた。
書記長室特注の羊皮紙が、三年前から、修道院を経由して、どこかへ流れている。二十年前の改ざんではない。今、現在進行形で、何かが書き換えられている。
「……エリオット」
「ん」
「縦糸が、生きている」
エリオットは答えなかった。少し間を置いてから、静かに言った。
「……書記長室は、まだ何かを書き換えてるってことか」
「……ええ」
「次に書き換えられるのは、何だと思う」
ルシルは答えなかった。代わりに、手帳を開き、新しい頁に一行だけ書いた。
【羊皮紙の流通経路を、追う】
それから、もう一行。
【三年前。何があったか、調べる】
メジャーを巻き直した。指に巻きつけ、もう一度チャキと鳴らした。
「……今日、朝飯抜いただろ」
「……抜いていない」
「黒パン、三口だけだったろ」
「……三口は、食事の範疇」
「範疇じゃない」
エリオットが懐から、布に包んだ黒パンを取り出した。
「持ってきた」
ルシルは少し、目を開いた。
「……いつ」
「お前が記録室を出た直後」
「……エリオット」
「ん」
「……ありがと」
ルシルは黒パンを受け取り、歩きながら一口かじった。
固い。顎が痛い。でも今日は、最後まで食べた。




