第16話 番頭の影(後編)
隣家の老婆の証言は、すぐに取れた。
エリオットが一人で聞き取りに行き、半日で戻ってきた。
「……ガスパールの妻は、確かに熱を出して寝込んでいた。老婆が看病していたのも事実だ。隣家の主人も裏付ける」
「……ではガスパールは、無実ですわね」
「ああ」
ルシルは手帳に書いた。【ガスパール・無実・裏付け確定】
窓の外、夕刻の光が斜めに差し込んでいた。
「……では、マルグリットのところへ」
「今からか」
「……ええ」
「証拠は」
「……ございますわ」
ルシルは手帳をもう一枚、めくった。そこに挟まれていた紙を、エリオットに示した。
「……朝、局の書庫で調べておりましたの」
紙には、砂糖商の店の見取り図が描かれていた。表口、裏口、書斎の位置。そして――書斎の窓の位置。
「……書斎の窓は、裏口の真上にありますわ」
「……それが」
「……窓から紐を垂らせば、裏口に立たずに棚の仕掛けを引けますの」
エリオットが目を見開いた。
「……外に出なくていいのか」
「……ええ。書斎の窓から、庭越しに、倉庫の壁を伝って紐を下ろせば。書斎から一歩も出ずに、倉庫の棚を倒せますわ」
「……では、ガスパールが裏手で見た『動いた気配』は」
「……紐そのもの、もしくは紐を操作する人物の影、だと思いますわ。窓から身を乗り出した、マルグリットの」
エリオットが、ゆっくりと息を吐いた。
「……それで確定か」
「……あと一つ。紐が処分された場所を、特定しなくてはなりませんわね」
「見つかっていないんだろう」
「……どこに処分するかは、限られますの」
ルシルは立ち上がった。
「……行きますわよ、エリオット」
***
夕暮れの石畳を、二人で歩いた。
砂糖問屋に近づくにつれ、甘い匂いがまた漂い始めた。
ルシルは店の前で立ち止まった。店の脇に、井戸があった。石造りの、蓋のついた井戸。
「……井戸ですの」
「……井戸?」
「紐を捨てる場所として、最も合理的ですわ。燃やせば煙が出る。ゴミ箱は翌日回収される。井戸なら、沈めるだけで済みますの」
「……引き上げられるのか」
「……局の備品に、釣鉤つきの縄がございますわ」
エリオットは店の近所から椅子と照明を借りてきた。ルシルは井戸の蓋を開けた。縄に釣鉤をつけ、ゆっくりと下ろした。
水音。
引き上げる。
何度か引き上げた。泥と落ち葉。古い桶の縁。空の瓶。
七度目――。
鉤が、重くなった。
ルシルが慎重に巻き上げた。
引き上げられたのは、水に濡れた一本の麻紐だった。長い。五メートルほどあった。
ルシルは紐の端を持ち上げた。先端に、小さな鉄の輪がついていた。棚の金具に引っかけるための輪だ。
「……見つかりましたわ」
ルシルはそれを袋に丁寧に収めた。
エリオットが静かに言った。
「……これで、完全に外堀が埋まった」
「……ええ」
ルシルは井戸の蓋を戻した。店の方を見た。
居間の窓に、薄く明かりが灯っていた。
***
マルグリットは、三度目の訪問を、驚きもせずに迎えた。
居間に通された。昨日と同じ椅子に、ルシルは座った。
マルグリットが椅子に腰を下ろしたとき、膝の上の手は――震えてもいなかった。重ねてもいなかった。ただ、置かれていた。
(……諦めた手)
ルシルは手帳を開いた。
「……マルグリットさん」
「……はい」
「本日、倉庫の近くの井戸から、麻紐が見つかりましたの」
マルグリットが、ゆっくりとルシルを見た。
「……そうですか」
「先端に、鉄の輪がついておりましたわ。倉庫の棚の固定金具に、一致しますの」
「……はい」
「井戸に、ご主人が紐を捨てる理由はございませんわ」
「……ないでしょうね」
マルグリットの声は、落ち着いていた。ルシルは続けた。
「……棚の固定金具は、事前に切断されておりました。金属ヤスリで、少しずつ。音を立てないように」
「……はい」
「そして、書斎の窓から紐を垂らせば、裏口に立たずに棚を倒せますの。書斎に入れるのは、ご主人とあなただけ」
マルグリットは、何も言わなかった。
「事件の夜、ご主人は倉庫で帳簿を付けておられた。あなたは書斎にいた。窓を開け、紐を垂らし、時刻を見計らって引いた」
「……」
「事故に見せかけるため、遺体を棚の下まで移動なさった。その際、砂糖の上を通らざるを得ませんでしたわね。薬指の擦り傷は、そのときのものですわ」
マルグリットが、自分の右手を見た。薬指に、まだ薄く傷が残っていた。
「……気づいていらしたんですね」
「……最初の日に」
マルグリットが、小さく笑った。笑った、というよりは、口の端がわずかに動いただけだった。
「……動機は、お聞きにならないのですか」
ルシルは手帳を閉じた。
「……聞きますわ。もし、お話しくださるなら」
マルグリットは窓の外を見た。外はもう暗かった。
「……二十三年、あの人と暮らしました」
「……」
「最初の五年は、好きだと思っておりました。次の五年は、慣れました。残りの十三年は――」
マルグリットの視線が、遠くなった。
「考えないようにしていました」
ルシルは何も言わなかった。
「あの人は、厳しい人でした。商売には厳しく、私にも厳しく。でも、外では――穏やかな商人、でしたのよ。書記長室の方々にも、評判が良かった」
「……書記長室」
「特注の砂糖を納めておりましたので」
(……来た)
ルシルは手帳を再び開いた。
「……書記長室と、ご主人の関係を、お聞かせ願えますか」
マルグリットが少し考えた。
「……私は、帳簿の細かいことはわかりません。でも、書記長室への納品だけは、主人が自ら計量し、自ら運んでおりました。誰にも触らせませんでした」
「……ガスパールさんにも」
「ええ。ガスパールには、書記長室の帳簿を見せませんでした。ガスパールがそれで何度も主人と揉めておりました」
「……その帳簿は、今どちらに」
「書斎の、鍵のかかった引き出しに」
「……拝見してもよろしいですか」
マルグリットは少し間を置いた。
「……どうぞ」
それは、静かな声だった。
***
書斎の引き出しから、革張りの帳簿が出てきた。
ルシルはその場で開いた。
書記長室への納品記録。日付、量、価格。細かい数字が並んでいた。
ページをめくった。
半ばの一ページ。
納品量が、急に減っていた。それから数ヶ月後、元に戻っていた。
減っていた時期の、欄外――。
小さな文字で、書き込みがあった。
(……「特注羊皮紙一束、受領」)
ルシルは息を止めた。
砂糖の納品帳簿に、なぜ羊皮紙の受領記録が書かれているのか。
日付を確認した。
二十年前。二十年前の――ある月。
エリオットが覗き込んだ。
「……これは」
「……書記長室特注の羊皮紙を、砂糖商が受け取ったという記録ですわ」
「……二十年前」
「……ええ」
(……二十年前の会議の議事録が改ざんされた時期と、一致しますの)
(砂糖商は、改ざんされた羊皮紙の一部を、受け取っていた)
(なぜ?)
(……保管するため、あるいは――処分するため)
ルシルはその頁を、丁寧に目で焼き付けた。
ルシルは帳簿を閉じた。
***
居間に戻ると、マルグリットは同じ椅子に座っていた。
「……マルグリットさん」
「はい」
「……ご主人を手にかけた理由は、長年のことだと、お見受けいたしますわ」
「……はい」
「でも、このタイミングで実行に移されたのには、別の理由もおありでしょう」
マルグリットが、ルシルを見た。ルシルはその目を、静かに見つめた。
「……ご主人は、最近、何かに怯えておられましたか」
マルグリットが、少し黙った。
「……先月から、夜、うなされることが増えました。書記長室の方のお名前を、寝言で呟いておりました」
「……お名前を」
「……申し上げた方が、よろしいのでしょうか」
「……伺いたいですわ」
マルグリットは、ゆっくりと口を開いた。名前を、一つ言った。
ルシルとエリオットが、同時に息を止めた。
手帳に書き写さなかった。覚えるために、何度も手帳を開かない。一度で、十分だった。
(……クレマン書記長)
マルグリットの声は、続いた。
「主人は、二十年前のことを、死ぬまで引きずっておりました。私には詳しく話しませんでしたが、『証拠が残っている』『いつかバレる』と、そればかり」
「……」
「私は、それを利用いたしました」
マルグリットが、淡々と言った。
「主人が夜、倉庫で帳簿に向かう時間が増えたのは、書記長室から『証拠を整理しろ』と指示があったからです。その日も、主人は書記長室の帳簿を確認しておりました。私は、その隙を狙いました」
「……つまり」
「主人が殺されるとしても、誰も驚かない状況を、書記長室が先に作ってくださったのですわ」
マルグリットは、わずかに笑った。今度は、確かに笑いだった。
「私一人の罪ではございません。そうお伝えください。どうか、正確に」
ルシルは手帳を閉じた。
「……正確に、記録いたしますわ」
***
マルグリットは、王都警察に連行された。
ガスパールは、釈放された。
帳簿は、異端審問局が押収した。
***
夜、局の記録室に戻ったルシルは、机に広げた帳簿の一頁を、もう一度見ていた。
二十年前の羊皮紙受領記録。欄外の小さな文字。
(……繋がりましたわ)
二十年前の会議の議事録改ざん。父の冤罪処刑。ドゥヴォー伯爵の死。エドモンの死。ベルナール修道士の刺殺。そして、今回のアンリの死。
すべてを繋ぐ糸が、「書記長室特注羊皮紙」だった。
そして、クレマン書記長の名。
(……まだ、決定打ではありませんわ)
(マルグリットが聞いたのは、寝言。法的な証拠にはなりませんの)
(でも、間違いなく、近づいております)
扉の外で、エリオットの足音がした。
ルシルは帳簿を閉じた。鉛筆を置いた。
手帳の新しい頁を開いた。一行だけ書いた。
【次の事件を、待つ必要はなくなった】




