第14話 砂糖の底(後編)
夜、記録室に戻ったルシルは、計算を続けた。
蝋燭を三本立てた。手帳を広げた。
砂糖の窪みの寸法。被害者の体重。砂糖の密度(精製糖、推定)。体が接触する面積の理論値。
計算した。
やはり、合わなかった。
七十一キログラムの人間が仰向けに倒れた場合、砂糖に残る窪みの面積は――もっと広くなる。背中と肩が接触するから。
だが現場の窪みは、面積が小さかった。
そして、形が丸かった。
(膝を抱えて、座った体勢)
ルシルは鉛筆を置いた。
窓の外、王都の夜が静かだった。
(アンリ・ドゥルーは、砂糖の中に座って死んだ)
(棚に押し倒されたのではない)
(では、何が彼を殺したのか)
まだ、測れていないことがあった。
死因だ。
***
翌朝、ルシルはエリオットに言った。
「……検死記録を取り寄せてほしいのですが」
「……警察の?」
「……ええ。それと、今日は関係者の話を聞きます」
エリオットが少し間を置いた。
「……何人いる」
「……把握している限り、四人。妻のマルグリット、番頭のガスパール、出入りの御者、それから――隣の金物屋の主人」
「隣の金物屋が関係あるのか」
「……昨日、倉庫の外に人影があったという記録が警察にあります。その目撃者」
「なるほど」
「……順番は、妻から」
「なぜ妻から」
「……一番、測りたいことがありますので」
エリオットが何かを言いかけて、止めた。
聞かない方が早い、と学んでいた。
***
マルグリットは、居間で迎えた。
黒い喪服を着ていた。目が赤かった。昨日からずっと泣いていたのだろう、頬が少し腫れていた。
「……このたびは」
ルシルは言った。
「ご愁傷さまですわ」
「ありがとうございます」
マルグリットの声は、かすれていた。
「異端審問局の方が来られると聞いて――何か、問題でもございましたか」
「……いいえ。記録の確認だけですわ」
ルシルは椅子に座った。手帳を開いた。
「……いくつか、聞かせてください」
「はい」
「事故があった夜、最後にご主人を見たのはいつですか」
「夕食の後です。主人は夜も帳簿の確認があると言って、倉庫に戻りました」
「……その時刻は」
「七時を少し過ぎたころかと」
「……あなたはその後、どちらに」
「母屋に戻って、寝ました。主人が倉庫に残ることは、よくあることでしたので」
ルシルは手帳に書き写した。
その間、マルグリットを見ていた。
目が赤い。声がかすれている。手が、膝の上でときどき握られる。
(……測れる)
悲しんでいる、のは本当だと思った。
何を悲しんでいるのかは――まだ、測れなかった。
「……ご主人は、最近、変わったことはありましたか」
「変わったこと」
「……誰かと揉めていたとか。あるいは、気になることを話していたとか」
マルグリットが少し考えた。
「……番頭のガスパールと、よく言い合いをしていました。それは、以前からのことですが」
「どんな内容で」
「帳簿の付け方で、意見が合わないことが多くて。主人は厳しい人でしたから」
「……ガスパールさんは、長く勤めているのですか」
「十二年になります」
「……それは」
ルシルは一度、鉛筆を止めた。
「……仲が悪くても、十二年」
「ガスパールは仕事ができますから」
マルグリットは言った。
「主人も、それはわかっていたと思います。ただ――折り合いが悪くて」
「……そうですか」
ルシルは手帳に書き写した。
マルグリットが、静かに続けた。
「……主人は、厳しい人でした。でも、ちゃんとしている人でした。こんなことになるなんて――」
声が、途切れた。
ルシルは待った。
マルグリットが目元を押さえた。しばらく、何も言わなかった。
エリオットが、そっとハンカチを差し出した。
「……ありがとうございます」
マルグリットが受け取った。
ルシルはその手を、見ていた。
受け取るとき、右手の薬指に――うっすらと、擦り傷があった。
(……砂糖袋は、荒い麻袋ですわ。素手で動かすと、こういう傷ができる)
何も言わなかった。
手帳に、小さく書き写した。
***
番頭のガスパールは、倉庫の帳場にいた。
五十がらみの、がっしりした体格の男だった。愛想はなかった。ルシルたちが入ってきても、帳簿から目を上げなかった。
「……お時間をいただけますか」
「……どうぞ」
椅子を勧める気配もなかった。ルシルは立ったまま、手帳を開いた。
「事故があった夜、あなたはどちらにいましたか」
「家です」
「……何時ごろまで、ここにいましたか」
「六時には上がりました。旦那様と少し話してから」
「どんな話を」
「……明日の納品の確認です」
「……揉めましたか」
ガスパールがようやく顔を上げた。
「……何のことですか」
「……旦那様とは、意見が合わないことが多かったと聞きましたの」
「仕事の話です。揉めていません」
「……そうですか」
ルシルはガスパールを、静かに見た。
目が、少し逸れた。
(……逸れた)
それだけ、手帳に書いた。
「……ガスパールさんは、倉庫の鍵を持っていますか」
「番頭ですから」
「……合鍵が、何本ありますか」
「旦那様と私で、二本です」
「……昨夜、鍵はどこにありましたか」
「家に持って帰りました」
「……今も、持っていますか」
ガスパールが懐から鍵を出した。無言で示した。
ルシルは鍵を見た。
(……鍵は一本。でも、鍵穴が二つあると昨日確認しましたわ)
「……もう一本の鍵は、旦那様がいつもお持ちだったのですか」
「そうです」
「……今、その鍵はどこにありますか」
ガスパールが少し黙った。
「……警察が持っているんじゃないですか。遺品として」
「……そうですか」
ルシルは手帳に書いた。エリオットと、一瞬だけ目が合った。
エリオットが小さく頷いた。確認する、という意味だった。
***
帳場を出て、石畳の路地に出た。
「……どう見た」
エリオットが言った。
「……まだ、測り中ですわ」
「ガスパールは怪しいか」
「……動機はあると思います」
「妻は」
「……」
ルシルは少し間を置いた。
「……右手の薬指に、擦り傷がありました」
エリオットが、歩みを止めた。
「……麻袋の」
「……かもしれません。ほかの原因でも、できる傷ですわ」
「だが」
「……まだ、言えませんの。測れていないことが、あと三つあります」
「三つ」
「……死因。鍵の所在。それから――」
ルシルは手帳を閉じた。
「……もう一つは、まだ言いたくありませんの」
エリオットが、ルシルの横顔を見た。
何かを、もう掴みかけている顔だった。
それでも言わない、という顔だった。
「……わかった」
エリオットは言った。
「次は御者か」
「……ええ。その前に」
「何だ」
「……検死記録を、今日中に」
「手配する」
「……ありがとう」
路地の先で、砂糖問屋の看板が風に揺れていた。
甘い匂いが、まだどこかに残っていた。
ルシルは手帳を開いたまま、次の測るべきものを書き足した。




