第14話 砂糖の底(前編)
マルグリットは、夫の背中を見ていた。
倉庫の奥、砂糖袋の積み上がった棚の前で、アンリは帳簿を広げていた。蝋燭の光が、その横顔を照らしている。
もう二十三年、この背中を見てきた。
最初の五年は、好きだと思っていた。次の五年は、慣れたと思っていた。残りの十三年は――考えないようにしていた。
「マルグリット」
アンリが振り返らずに言った。
「明日の納品、確認したか」
「……しました」
「書記長室への分は、特別に計量し直せと言っているだろう。何度言えばわかる」
「わかっております」
「お前がわかっていれば、去年の過不足は起きなかった」
マルグリットは何も言わなかった。
言わないことに、もう慣れていた。
アンリが帳簿に目を戻した。ペンを走らせる音だけが倉庫に響く。
マルグリットは、棚の上段を見た。
砂糖袋が、三十袋ほど積み上げられている。一袋、二十キログラム。
計算は、ずっと前からしていた。
***
音は、思ったより小さかった。
砂糖袋が崩れる音。アンリが声を上げる間もなかった音。
マルグリットは、その場に立っていた。
手が震えていた。足も震えていた。でも頭は、不思議なほど冷えていた。
(落ち着きなさい。順番通りに)
まず、蝋燭を消した。
次に、扉の掛け金を確認した。
それから――アンリの体の位置を、変えた。
砂糖の山が崩れた場所から、少し離れた棚の下へ。まるで棚が倒れてきたように見える場所へ。
重かった。
***
翌朝、悲鳴を上げたのはマルグリット自身だった。
「主人が――主人が死んでいます――!」
声は、ちゃんと震えていた。
涙も、ちゃんと出た。
自分でも驚いた。
本当に悲しいのか、怖いのか、ほっとしているのか――もうよくわからなかった。ただ泣いた。
近所の者たちが集まってきた。番頭のガスパールが飛んできた。王都警察が来た。
そして――異端審問局の記録官が来た、と聞いたのは、午後になってからだった。
***
「……砂糖ですの」
倉庫の入口に立ったルシルが、最初に言ったのはそれだった。
エリオットが後ろで扉を押さえながら言った。
「……そうだ。砂糖の問屋だ」
「……砂糖の密度は、種類によって異なる。粗糖か精製糖かで、沈み方が変わる」
「それはなぜ今言う必要がある情報だ」
「……習慣」
エリオットが息を吐いた。
倉庫の中は、甘い匂いが充満していた。砂糖袋が崩れた場所に、白い粉が薄く広がっている。その中に、うっすらと輪郭が残っていた。
ルシルはしゃがみ込んだ。
真鍮のメジャーを取り出した。
「……測ります」
「何を」
「……砂糖の、沈み方を」
エリオットが少し間を置いた。
「……砂糖を測るのか」
「……人が倒れると、砂糖に型が残る。雪と同じ原理」
「……意味があるのか」
「……やってみないとわからない」
ルシルはメジャーを砂糖の表面にそっと当てた。
崩れた砂糖袋の近く――死体が最初にあったとされる位置に、わずかな窪みが残っていた。
形を、丁寧に計測した。縦の長さ。横の長さ。深さ。窪みの輪郭の角度。手帳に書き写す。
「……エリオット」
「何だ」
「被害者の身長と、体重の記録はありますか」
「……警察の記録なら手元にある。身長百七十二センチ、体重七十一キログラム」
「……ありがと」
ルシルは計算した。
合わなかった。
もう一度、測った。
合わなかった。
「……エリオット」
「……また何だ」
「棚が倒れたとき、被害者はどういう体勢だったと警察は記録していますか」
「……棚に押し倒されて、仰向けになっていたと」
「……そう」
ルシルは窪みを、もう一度だけ見た。
何も言わなかった。
***
続けて、倉庫の内寸を測り始めた。
「……何を測っているんだ、今度は」
「部屋」
「なぜ部屋を」
「……部屋に入ったら全部測りますの」
エリオットが黙った。
ルシルは黙々と測った。縦、横、天井高。棚の残骸の位置。崩れた砂糖袋の分布。
そのとき――足が砂糖袋の端を踏んだ。
崩れた。
「――っ」
砂糖の白い粉が、膝から腰にかけてを直撃した。
ルシルは一瞬固まった。
エリオットが駆け寄った。
「……大丈夫か」
「……砂糖の密度が、予想より低かった」
「それは謝罪ではない」
「……失礼しましたわ」
「謝罪が後から来た」
ルシルはドレスについた砂糖を払おうとした。白い粉が、逆に広がった。
「……払うと広がります」
「……そうだな」
「……エリオット」
「何だ」
「……払ってください」
エリオットが三秒黙った。
「……自分で払え」
「……手が届きませんの」
「どこに」
「……背中」
エリオットがルシルの背中を見た。白い粉が、肩から腰まで均等についていた。
「……なぜ背中にまでついている」
「……転びかけた」
エリオットが息を吐いた。
黙って、払った。
「……ありがと」
「……次から、砂糖袋の端は踏むな」
「……善処します」
「善処で済む問題ではない気がするが」
ルシルはすでに手帳を開いていた。計算の続きをしていた。
エリオットは何も言わなかった。
倉庫の甘い空気の中で、ルシルの鉛筆が動く音だけが続いた。
***
「……エリオット」
「……何だ」
「被害者が発見された場所まで、距離を測ってください。ここから」
ルシルが指さした場所――砂糖の窪みのある地点から、エリオットが発見場所まで歩いた。
「……二・三メートルほどある」
「……やはり」
「やはり、とは」
ルシルはメジャーをしまった。立ち上がった。
「この事件、事故ではありません」
エリオットが、静かにルシルを見た。
「……根拠は」
「……明日、話します。今夜、計算しますので」
「今は言えないのか」
「……言えますの」
ルシルは手帳を閉じた。
「でも、まだ一か所だけ測っていない場所があります」
「どこだ」
「……棚の、固定金具」
ルシルは倒れた棚の残骸に近づいた。金具の断面を、目を細めて見た。
錆びた木材が圧力で折れた断面ではなかった。
鋭かった。
(……やはり、切られていますわ)
手帳に転写した。それだけした。
倉庫の外で、マルグリットの泣き声が聞こえた。近所の女たちが慰めている声も聞こえた。
ルシルは倉庫の出口に向かった。
(……まだ、測ることがありますわ)
甘い空気が、後ろから追いかけてきた。




