第13話 妹と騎士と、測れない昼食(前編)
セリーヌが来たのは、昼前だった。
予告はなかった。ただ、記録室の扉が開いて、栗色の髪が見えた。
「お姉様」
「……セリーヌ」
ルシルは手元の羊皮紙から目を離さなかった。離せなかった。先日の記録書の最終清書が、まだ終わっていなかった。
セリーヌが部屋に入り、扉を閉めた。そして両手で持っていた布包みを、机の上にそっと置いた。
「先日、来るたびにちゃんとしたものを持ってくると言ったでしょう」
「……覚えてる」
「だから、これ」
包みから漂う匂いが、ルシルの鼻を打った。
温かい。甘い。バターと小麦の匂いだ。記録室にはおよそ似合わない、食堂よりずっと上等な匂い。
「……いい匂い。何?」
「ナタリーが焼いてくれたパイです。お肉と野菜が入ってます」
ルシルは羊皮紙を置いた。
包みを開けると、きつね色に焼けたパイが現れた。まだ温かい。生地の表面が、ランプの光を受けてつやつやと光っている。
(……これを、黒パンと比べると)
「お姉様」
「……なに」
「今、黒パンと比べました?」
「……してない」
「顔に出てますわ」
ルシルは無表情のまま、セリーヌを見た。セリーヌがクスクスと柔らかく笑った。
「さあ、食べましょう。温かいうちに」
***
問題が発生したのは、セリーヌがパイを切り分け始めたときだった。
ルシルがメジャーを取り出した。
「……均等に切れているか、確認する」
「お姉様」
「……三つに分けるなら、一切れあたり——」
「お姉様」
セリーヌがルシルの手を、両手で包んだ。メジャーごと。
「パイは測るものではありません」
「……測った方が公平」
「誰も不満を言いませんから。さあ」
セリーヌがルシルの前に皿を置いた。ルシルはメジャーを仕舞い、フォークを取った。
一口食べた。
(……)
(……おいしい)
何も言わなかった。しかし手が、止まらなかった。
「……お姉様、顔が変わりました」
「……変わってない」
「変わりました。ナタリーが喜びますわ、きっと」
扉がノックされた。
「……入っていいか」
エリオットの声だった。
「どうぞ」とセリーヌが明るく答えた。
扉が開き、エリオットが黒パンを持って入ってきた。部屋の中を見て、一瞬止まった。
「……セリーヌさん」
「エリオット様」セリーヌが微笑んだ。「ちょうどよかったです!一緒にいかがですか」
エリオットが、手の黒パンを見た。それからパイを見た。それから黒パンを見た。
「……俺は遠慮する」
「なぜですか」
「お前たちの時間だろ」
「まあ」とセリーヌが言った。「エリオット様は毎朝黒パンを持ってきてくださいますのに、ご自分は黒パンを召し上がると」
「……習慣だ」
「今日は違う習慣にしてください。座ってください」
エリオットが再び手の黒パンを見た。
「……黒パンは」
「後でお姉様が食べます」
「……私は食べない、今日は」
「食べます」
「……食べません」
「お姉様」
ルシルは黙った。セリーヌが勝った顔をした。エリオットが椅子を引いた。黒パンは机の端に置かれた。
***
三人で、記録室で昼食をとった。
セリーヌがパイを切り分け、エリオットが渋々受け取り、ルシルが黙々と食べた。
「エリオット様」とセリーヌが言った。「お姉様は最近、ちゃんと眠れておりますか」
「……七割方は眠っている」
「七割」セリーヌが繰り返した。「残りの三割は」
「記録室で作業している。ただし倒れる前に止める」
「どうやって止めるのですか?」
「……黒パンを目の前に置く」
「それで止まるんですか」
「……止まる。食べるかどうかは別として、気が散る」
セリーヌがルシルを見た。ルシルはパイを食べていた。
「……お姉様、食事で気が散るんですか」
「……空腹は集中力を下げる。食べ物の匂いは情報として処理するの」
「まあ」
セリーヌがエリオットを見た。エリオットが小さく息を吐いた。同意の音だった。
「いつもありがとうございます、エリオット様。本当に」
「……俺は仕事をしているだけだ」
「そうですか」
セリーヌは穏やかに笑った。しかしその目が、一瞬だけ何かを読んだ。エリオットは目を逸らした。
ルシルはパイの三切れ目に手を伸ばした。
「……お姉様」とセリーヌが言った。
「……三切れ目です、念のため」
「……わかってる」
「よかった」
***
食後、セリーヌが包みを片付けながら言った。
「そういえば、お母様に会いに行きませんか。三人で」
「……今日?」とルシルは聞いた。
「ダメですか」
「……清書が終わっていない」
「あと、どのくらいかかりますか?」
「……一時間」
「では一時間後に参りましょう!エリオット様も」
エリオットが少し驚いた顔をした。
「……俺も行くのか」
「お姉様の護衛ですから」とセリーヌは当然のように言った。「それに、エリオット様のことはお母様がずっと気になっておられます」
「……俺のことを?」
「お姉様から、お手紙でよく伺っておりますので」
「……ルシルが、俺のことを手紙に書いているのか」
ルシルは清書を再開した。
「……業務報告」
「お母様への手紙が業務報告なんですか」
「……必要な情報を、正確に伝えているだけ」
セリーヌが笑った。柔らかい、よく響く笑い声だった。
エリオットがルシルを見た。ルシルは羊皮紙から目を離さなかった。
「……行けるかどうか、考えておく」とエリオットが言った。
「ありがとうございます!」とセリーヌが答えた。
その言い方が、すでに「来る前提」だった。
ルシルは羊皮紙に視線を落としたまま、内心でだけ思った。
(……セリーヌとエリオットは、なぜこんなに話が早いの?)
測れなかった。




