第11話 騎士の目に映るもの
エリオットは、ルシルという人間が苦手だった。
正確には――苦手だった、と過去形で言うべきか。今はもう、苦手という感覚がどこかへ消えている。代わりに何があるかは、うまく言葉にできない。
異端審問局に配属されて半年。
エリオットは毎朝、記録室に黒パンを持っていく。ルシルが飯を食わないからだ。食わせないと倒れる。倒れると仕事にならない。それだけの理由だと、最初は思っていた。
今も、そう思うことにしている。
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その日の朝、記録室の扉を開けると――ルシルがいなかった。
珍しい。
机の上に、広げたままの羊皮紙とガラスペン。インク壺の蓋が開いている。少し前まで作業していた痕跡だ。
エリオットは黒パンを机の上に置き、廊下に戻った。
ルシルが記録室を離れる場合は、だいたい決まっている。現場に呼ばれたとき。食堂に引きずっていかれたとき。そして――古い記録棚の区画をうろついているとき。
足音を立てずに廊下を進んだ。
角を曲がった先の、薄暗い区画。古い記録が眠る棚が壁一面に並ぶ場所。
そこに、ルシルがいた。
しかし。
ルシルの隣に、見知らぬ人物が立っていた。
若い女性だった。ルシルより少し背が低い。栗色の髪が、肩のあたりで緩やかに波打っている。質素だが上品な外套。ルシルの横顔を、じっと見つめていた。
じっと、というより――見惚れていた。
ルシルは羊皮紙の束をランプにかざしながら、何かを確認している。隣の人物に気づいているのかいないのか――判断がつかなかった。
「……お姉様」
女性が、静かに言った。
「……セリーヌ」
ルシルの声が、変わった。
エリオットはこれまで、ルシルの声を何百回と聞いてきた。現場で証拠を告げる冷たい声。記録室で返答する無機質な声。腹が減ったと報告する声。
しかし今聞こえたのは――そのどれとも違う声だった。
柔らかかった。
驚いていて、それでいて――嬉しそうだった。
「突然参りまして、ごめんなさい、お姉様」
セリーヌが微笑んだ。ただそこにいるだけで場が明るくなるような、不思議な柔らかさがあった。
「……なぜここが」
「局の方に、お姉様の居場所を教えていただきました。ナタリーさんのお家から、今日は一人で参りました」
「……教えた人間を後で特定するわ」
「まあ」とセリーヌが笑った。「相変わらずですね」
ルシルが羊皮紙を棚に戻し、セリーヌの方へ向き直った。
そっと手を伸ばし、セリーヌの頬を愛おしそうに撫でた。それからわずかにずれていた外套の襟を、無言で直した。一秒だけ。それだけだった。
メジャーは、出なかった。
エリオットはそのことに、なぜか気づいた。ルシルは現場でも市場でも、気になるものがあれば反射的にメジャーを取り出す。しかし今は――ただ、見ていた。触れていた。
「……顔色がいい。よかった」
「お姉様こそ」とセリーヌが言った。「少し痩せましたか?」
「……痩せていない」
「お食事は?」
「……黒パンを、毎日」
「まあ」
セリーヌの目が、柔らかく細くなった。呆れているのか、安堵しているのか、あるいはその両方なのか。
「お姉様ったら。黒パンだけで生きていらっしゃるの?」
「……栄養がある」
「次に来るときは、ちゃんとしたものを持ってきます。お姉様の好きなもの、まだ覚えていますから」
「……来なくていい」
「参ります」
「……来なくていい」
「参ります」
「……うん」
ルシルが頷いた。
セリーヌが勝った顔をした。エリオットは壁の向こうで、その光景を静かに見ていた。
セリーヌがゆっくりと視線をずらした。
廊下の先。エリオットの方へ。
目が合った。
エリオットは咄嗟に身を引こうとした。しかし遅かった。
セリーヌが、静かに微笑んだ。
何も言わない。しかし――その目が、すでに何かを読んでいた。
「お姉様、そちらの方は?」
ルシルが振り返った。エリオットを見た。
「……エリオット。護衛騎士。一緒に仕事してる」
セリーヌがエリオットの方へ歩み寄った。
「はじめまして。セリーヌと申します。姉がいつもお世話になっております」
「エリオットです。世話というか――」
「黒パンを、毎日持ってきてくださる方ですね!」
エリオットは少し驚いた。
「……聞いたんですか」
「いいえ」とセリーヌは言った。「お姉様が『黒パンを毎日食べている』とおっしゃいましたから。お姉様は自分では調達しませんので、誰かが持ってきてくださっているのだと」
エリオットは黙った。
「ありがとうございます」とセリーヌは言った。「本当に、ありがとうございます」
その言葉には――礼儀としての重さより、もっと深いところからくる重さがあった。
エリオットは何も言えなかった。
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三人で、記録室に戻った。
セリーヌが椅子に腰を下ろすと、ルシルがその隣に――いつもとは明らかに違う距離で――座った。セリーヌがそれに気づいて、少しだけ嬉しそうに背筋を伸ばした。
「お母様はお変わりなく?」
「……先月、会いに行ったわ。元気だった」
「存じております。先日、お母様からお手紙をいただきました。『ルシルが近頃、一番いい顔をしていた』と」
ルシルが微妙な顔をした。エリオットは見なかったふりをした。
「……大げさ」
「お姉様には、仲良くしてくださる方ができましたの?」
「……いない」
セリーヌがエリオットをちらりと見た。
エリオットは目を逸らした。
「そうですか」とセリーヌは言った。それ以上は追及しなかった。しかし――その目は、すでに答えを持っているようだった。
「エリオット様」
「……はい」
「お姉様は、ちゃんと眠れておりますか」
「睡眠時間は人並みとは言えないが、倒れるほどではない」
「食事は」
「毎朝、俺が持っていっている」
「夜は」
「……気づいたら机に置いておく」
セリーヌがルシルを見た。ルシルは机の木目を見ていた。
「お姉様」
「……なに」
「エリオット様に、ちゃんと感謝していますの?」
「……してる」
「本当に?」
「……ありがと、って言ってる」
「まあ」
セリーヌの目が、じんわりと細くなった。嬉しいのか、泣きそうなのか、エリオットには判断がつかなかった。
「よかった」と、小さく言った。「お姉様が、そういうことを言えるようになって。よかったです」
ルシルが黙った。
反論しなかった。
エリオットは、それがなぜか――少し、胸に刺さった。
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「……そういえば」とセリーヌが続けた。「お母様のお手紙に、少し気になることが書かれておりまして」
ルシルの手が、止まった。
「療養施設の近くに、最近、見知らぬ男が何度か現れているようだと。施設の方が気にしておられるとのことで」
「……何日前から?」
「お手紙の日付から察するに、三週間ほど前からかと。名前も告げず立ち去るのだけれど、目的は明らかにその施設だと」
「……男の特徴は」
「中肉中背。地味な外套。顔は見えなかったと」
ルシルの指が、メジャーに触れた。
チャキ、と小さく鳴った。
「……来る時間帯は」
「夕方から夜にかけて、と」
ルシルが立ち上がった。
「……エリオット」
「ああ」
「施設に行く」
「わかった」
セリーヌがエリオットを見た。
また、あの目だった。何かを読んでいる目。しかし今度は――少しだけ、安堵の色が混じっていた。
「……お願いできますか」とセリーヌは言った。「お姉様のこと」
「もとからそのつもりです」
セリーヌが微笑んだ。
ルシルはその会話を聞いていたはずだが、すでに修道服の袖に何かを書き込み始めていた。
(三週間前。アンリ修道士の件が動き始めた時期と、重なる)
エリオットには、そこまで見えていなかった。
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出発の前に、セリーヌがルシルの手を両手で包んだ。
「また来てもよろしいですか」
「……来なくていい」
「参りますわ」
「……来なくていい」
「お姉様」
セリーヌがルシルの顔を、まっすぐに見た。
「会いたいのです。いつでも」
ルシルが、一秒だけ黙った。そして、
「……うん」
セリーヌが、ぱっと顔を明るくした。
エリオットは廊下で待ちながら、その光景を見ていた。
(似ていない)
話し方も、性格も、世界の測り方も。
顔だけが、似ていた。
しかし――ルシルがセリーヌを見る目と、セリーヌがルシルを見る目だけは、どこか同じ形をしていた。
大切なものを、確認するときの目。
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施設への道を歩きながら、ルシルは無言だった。
エリオットも何も言わなかった。
しばらくして、ルシルが口を開いた。
「……セリーヌ、変なこと言わなかった?」
「変なことは言っていない」
「……そう」
「賢い人だな」
「……うん」
また沈黙。石畳を、二人で歩いた。
「……心配かけてる」
エリオットは少し驚いた。
「妹さんに?」
「……みんなに」
エリオットは答えなかった。
否定するのは簡単だった。しかしルシルは嘘が嫌いだ。
「……黒パン、美味かったか」
ルシルが少し間を置いた。
「……固い。顎が痛い」
「そうか」
「……でも」
石畳の先を見たまま、小さく言った。
「……ありがと」
エリオットは答えなかった。
ただ、少し、歩調を緩めた。ルシルの歩幅に合わせて。
夕暮れが近づいていた。施設まで、まだ少しある。




