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『異端審問官ルシルの検死記録 ~没落令嬢は真鍮のメジャーで死体の嘘を測る~』  作者: w.t.


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第10話 真鍮のメジャーと、街の値段

 朝、記録室の扉が開いた。


 エリオットが入ってきた。黒パンを持っていない。非番の顔をしていた。


 「今日は外に出るぞ」


 「……仕事?」


 「違う」


 「……じゃあ行かない」


 「出るぞ」


 ルシルは棚から目を離さなかった。今日は十二年前の記録書の照合をするつもりだった。予定がある。


 「ルシル、お前が最後に仕事以外で外に出たのはいつだ」


 「……覚えてない」


 「俺も知らない。つまりそういうことだ」


 「……そういうこと、の意味がわからない」


 エリオットは答えなかった。代わりに、棚とルシルの間に静かに立ちふさがった。羊皮紙が見えなくなった。


 ルシルはしばらくエリオットの騎士服の胸元を見つめた。どく気配がなかった。


 「……行けばどく?」


 「ああ」


 「……わかった」


---


 王都の中央市場は、朝から人でごった返していた。


 石畳の上に色とりどりの露店が並び、野菜、魚、香辛料、布地、陶器。あらゆるものが声と匂いと共に売られている。


 ルシルは市場の入口で立ち止まった。


(……人間の密度が、高すぎます)


 「俺の後ろについてこい」とエリオットが言った。


 「……わかってる」


 三歩で迷子になった。


 気づいたら見知らぬ布地屋の前に立っていた。左右を見た。エリオットがいない。


(……おかしいですわ。まっすぐ歩いたつもりですのに)


 「ルシル」


 右後方から声がした。腕を組んで、呆れた顔のエリオットがいた。


 「三歩だぞ」


 「……石畳の幅が不均一。ペースが乱れた」


 「そういうことにしておく」


 袖を掴まれ、人混みの中を引かれていった。


---


 野菜の露店の前で、ルシルは足を止めた。


 山積みの人参を見つめ、メジャーを取り出した。


 チャキ、チャキ。


 「……何してる」


 「……太さと重さの比率が一定なら、鮮度の指標になる。腐敗が始まると内部から水分が――」


 「買うのか」


 「……買わない」


 「やめろ」


 魚の露店でも、ルシルは足を止めた。並んだ魚の目と鰓の色を順番に確認し始める。


 「……鰓の赤みが薄いものは水揚げから時間が経っている。死後変色のパターンと――」


 「買うのか」


 「……買わない」


 「行くぞ」


 袖を引かれた。露店の主人が、複雑な顔でこちらを見ていた。


(……市場というのは、あらゆるものの鮮度と価値の記録がそのまま並んでいる場所ですわ。検死室と、少し似ています)


 それは口にしなかった。


---


 宝飾品の露店の前で、エリオットが立ち止まった。


 「少し見るか」


 ルシルは一つのブローチを手に取り、裏面を確認した。留め具の精度。金属の配合を、表面の色から推測する。


(……七年から十年前の作品ですわ。留め具のこの様式は、王都の職人組合が規格を変える前のものですの)


 「気に入ったのか」


 「……年代の確認。昔、父が古い医療器具の年代を金属の配合で調べてた。色と重さで、大体わかる」


 エリオットが少し黙った。


 「……お父上は、そういう人だったのか」


 「……そうだったと思います」


 ルシルはブローチを元の場所に戻した。


(確信がありませんの。まだ)


---


 市場を抜けると、石造りの広場に出た。


 中央の噴水の縁に、二人で腰を下ろした。エリオットが懐から黒パンを二つ取り出した。


 「食え」


 「……いつももってる」


 「備えておく主義だ」


 一口かじった。固い。顎が痛い。しかし外の空気の中で食べると――


(……風の味がする)


 「……どうして連れてきたの?」


 「お前が最近、棚の奥の記録ばかり見ていたから」


 「……普通の仕事」


 「顔が違う」


 ルシルは噴水を見た。水面が、風で細かく揺れていた。


(……聞かないですわね、何を調べているか)


 聞けば答えないとわかっているから、聞かない。


(……変な人ですわ)


 「……ありがと」


 エリオットが少し驚いた顔をした。すぐに元に戻った。


 「どういたしまして」


 「……また来るつもりはありません。人が多い。疲れます」


 「そうか」


 「……でも」


 パンの最後のひとかけを、口に入れた。


 「……風の味は、悪くなかったですわ」


 エリオットは答えなかった。

 ただ、少し、目を細めた。


 噴水の傍で、鳩が一羽、石畳に降りてきた。


 ルシルはしばらくそれを見つめた。それからメジャーを取り出した。


 「……何してる」


 「……鳩の歩幅を測る。足の関節の可動域と――」


 「やめろ」


 「……なんで」


 「鳩が怖がってる」


 「……鳩に表情はない」


 「お前以外の全員にはわかる」


 ルシルはメジャーを仕舞った。鳩は石畳をつついていた。怖がっているかどうかは、測れなかった。


---


 帰り道。


 王都の夕暮れが、石畳を橙色に染めていた。


 ルシルは今日見たものを頭の中で整理していた。人参の太さ。魚の鰓の色。ブローチの金属の配合。鳩の歩幅。


(……全部のものが、何かを語っていますわ。読もうとする人間にだけ、読める記録ですの)


(お父様も、そういう目で世界を見ておりましたの)


 そしてその目を、誰かが――記録ごと、消そうとした。


 「ルシル」


 エリオットが呼んだ。


 「……ん」


 「また来るぞ」


 「……また来ない」


 「俺が来ると言っている」


 「……鳩、測っていい?」


 「考える」


 「……考えてる間に終わります


 「却下だ」


 ルシルは答えなかった。


 口元が、ほんの少しだけほぐれた。


 夕暮れの石畳を、二人で歩いた。

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