第9話 神の声と、三流の推理(後編)
「……アンリ修道士は、何を知っていましたの」
独り言だった。答えを期待していなかった。
しかし。
「それを聞いてどうする」
ガストンの声がした。
ルシルは振り返った。てっきり立ち去ったと思っていた男が、部屋の入口に腕を組んで立っていた。
「……まだいたんですか」
「私の現場だ」
「……記録書は作成済みと言いましたわね」
「……」
ガストンが黙った。ルシルはその顔を一瞥した。
怒っていない。怒鳴り返してこない。
(……この人、何かを知っていますわ)
「アンリ修道士と、面識がありましたか」
「……ない」
「嘘をつくのが、上手くありませんわね」
ガストンの眉が動いた。
エリオットが静かに一歩前へ出た。
「博士」と低い声で言った。「正直に話した方が、あなたのためだ」
沈黙が落ちた。ガストンは長い間、石の床を見つめていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……三週間前、彼が私の検死室を訪ねてきた」
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話は、こうだった。
アンリ修道士は写字の仕事中、ある文書の写しを命じられた。
内容は修道院の過去の記録の再編纂――表向きは。
しかし写し始めて気づいた。元の文書と、自分が写すよう命じられた「原本」の間に、数字の差異がある。
死者の記録だった。二十年前に亡くなった修道士の、死亡記録。
元の記録では死因が「刺傷による失血死」。
しかし写しの原本では――「病死」に書き換えられていた。
アンリはその矛盾を、唯一の知り合いである検死医、ガストンに持ち込んだ。
「私は……怖くなった」とガストンは言った。「彼に、誰にも言うなと忠告した。しかし」
「しかし、アンリ修道士は引かなかった」
「……ああ」
ガストンが顔を上げた。その目に、後悔の色があった。
「私が突き放したせいで、彼は一人で調べ続けたのだろう。そして――」
「殺された」
ルシルは静かに言った。
(二十年前の修道士の死亡記録。刺傷を、病死に書き換えた。その指示は書記長室から来た)
点が、また増えた。
「……その元の記録書を、見られますか」
「アンリが持っていたはずだ。しかし遺体の傍には――」
「ありませんでしたわ」
ルシルは立ち上がり、写字室をゆっくりと見回した。
アンリの席だけ、インク壺の蓋が開いたままだ。
(急いで立ち上がった。あるいは、立ち上がる間もなかった)
床を確認した。机の下、椅子の後ろ。壁際に羊皮紙の切れ端が一枚、落ちていた。
拾い上げ、ランプにかざした。
文字はない。しかし端の方に、文字を強く消した痕がある。羊皮紙を削った跡だ。
(アンリ修道士は、何かに気づいた瞬間に記録を隠そうとした。しかし間に合いませんでしたの)
「エリオット」
「ああ」
「写字室の責任者を呼んでください。アンリ修道士に写しを命じた人間が誰か、聞く」
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写字室の責任者は、五十代の穏やかな顔をした修道士だった。
しかし名前を告げた瞬間、その顔が固まった。
「……フランソワ修道士と申します」
「アンリ修道士に、過去の記録の再編纂を命じましたか」
「は、はい。上からの指示でございまして」
「上から」
「書記長室より、先月、正式な通達が――」
「その通達文を、見せてください」
「え、あ――」
フランソワが視線を泳がせた。
「……紛失してしまいまして」
「そうですか」
ルシルはフランソワの手を一瞥した。
右手の親指の爪が、短く割れている。何かを急いで破いた痕だ。さらに――上着の右袖口に、古いインクとは色の違う染みがある。昨夜のものだ。
(引きずった時に、アンリ修道士の体に触れた痕ですわ)
「一つだけ聞きます」
「は、はい」
「アンリ修道士が倒れた夜、あなたはどこにいましたか」
「わ、私は――自室で――」
「写字室から自室へ戻る廊下に、水場がありますわね」
フランソワが固まった。
「昨夜の雨で、廊下の石畳が濡れていた。あなたの靴の底に、その泥の痕が残っている。自室へ行くだけなら、水場の前は通りませんわ」
ルシルは一歩、近づいた。
「さらに、右袖口の染みが――昨夜のインクの色と一致していますの。アンリ修道士の机のインク壺、蓋が開いたままでした。遺体を抱えた際に、こぼれましたの?」
フランソワの口が、小さく開いた。言葉が出なかった。
「……逃げ場は、ありませんわ」
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「私一人では――私一人では、決められなかった」
フランソワは震える声で言った。
「書記長室から、連絡が来た。アンリが余計なものを見た、と。処理しろと。しなければ、私も――」
「処理しろ、と」
エリオットの声が、低くなった。
「……はい」
沈黙。
ルシルは窓の外を見ていた。曇り空だった。
(アンリ修道士は、二十年前の刺傷の記録を見つけた。その記録を書き換えた人間は、二十年間それを隠し続けてきた。さらに今も――消し続けている)
「エリオット」
「ああ」
「異端審問局に戻ります。二十年前の記録棚を、確認したい」
ガストンが、入口から静かに言った。
「……すまなかった。私が、あの時もっと」
ルシルは振り返り、ガストンを一瞥した。
「……怖かったのは、仕方ありません」
ガストンが目を見開いた。
「でも」
ルシルはメジャーをチャキ、と鳴らした。
「次は靴下を、外してから記録書を書いてくださいますか」
ガストンが、盛大に顔をしかめた。
それから――小さく、苦く笑った。
「……善処する」
「善処では困ります」
エリオットが、こらえきれず笑い声を漏らした。
ガストンは何も言わなかった。しかしその顔から、後悔の色が少しだけ薄れていた。
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異端審問局への帰り道。
エリオットが歩きながら、ルシルに黒パンを差し出した。
「食え」
「……帰ってから食べます」
「歩きながら食え。今日まだ何も食っていないだろ」
「……食べましたわ」
「朝、黒パンを持っていかなかったのは俺だ。俺が知っている」
ルシルは黙った。
受け取り、一口かじった。固い。顎が痛い。
「……ガストン博士は、使える」
「急な話だな」
「足元を見ていなかった。靴下を外す発想もなかった。でも――怖いのに、現場に残っていた。アンリ修道士のことを、気にしていた」
エリオットが少し間を置いた。
「……そうだな」
「勲章が三つあっても、怖いものは怖い。それは、下劣な話ではありません」
ルシルはパンをかじりながら、前を向いた。
(二十年前。記録が書き換えられた。父が処刑されたのは、十五年前ですわ)
(五年の差が、あります)
何かが、頭の中で動き始めていた。まだ形にならない。でも確かに――動いている。
「ルシル、そっちは食堂だ」
「……わかってます」
「今日は珍しく本当にわかってたな」
「……いつも、わかっていますの」
「嘘をつくな」
ルシルは答えなかった。
パンの残りを、黙って口に押し込んだ。
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記録室に戻り、ルシルは古い棚の前に立った。
二十年前の記録。指でなぞりながら、修道士の死亡記録を探す。
見つけた。
ランプの光にかざす。
(……書き換えられてる。案の定)
インクの色が、わずかに違う。筆圧の癖が、違う。しかし書き換えの癖が――
(同じ。十五年前の父の判決記録と、全く同じ手)
死亡した修道士の名前を確認する。
ベルナール修道士。二十年前、王都の修道院にて死亡。当時の記録では病死。
しかし元の記録では――刺傷による失血死。
(ベルナール修道士)
ルシルはドレスの裾に、その名前を小さく書き込んだ。
知らない名前だった。
同じ束の中に、別の記録が紛れていた。
二十年前の会議の出席者リスト。
指でなぞった。名前が並んでいる。
その中の一つに――目が止まった。
(……)
ヴィクトル、とあった。
父の名前だった。
ルシルはしばらく、その文字を見つめた。
感情が、動いた。
今回は、抑えなかった。抑え方を、一瞬忘れた。
ベルナール修道士も――出席者の一人として、同じリストに名前が載っていた。
(お父様は、この会議でベルナール修道士と同席していた)
(そしてベルナール修道士は、その五年後に刺し殺された)
(さらにその五年後に――お父様が、処刑された)
二十年。十五年。
同じ手が、同じインクで、ずっと書き換え続けてきた。
(書記長室は――お父様が処刑される、ずっと前から動いていましたわ)
ルシルはゆっくりと、メジャーを指に巻き付けた。
チャキ、チャキ。
冷たい音が、暗い記録室に響いた。
感情が、また静かになっていく。
(……まだわかりません。でも)
点が、線になりかけている。
(いつか必ず、測り直しますわ)
ランプを吹き消す前に、机の上を見た。
エリオットの黒パンが、置いてあった。
今日は、受け取った分を全部食べていた。
そのことに気づいて――ルシルは少しだけ、唇をほぐした。
暗闇の中で、出席者リストを膝の上に置いたまま、目を閉じた。
父の名前が、まぶたの裏に残っていた。




