第9話 神の声と、三流の推理(前編)
記録室の朝が始まる前に、エリオットが飛び込んできた。
黒パンを持っていない。珍しいことだった。
「ルシル、王都警察が先に現場を押さえた」
「……それは、問題」
「俺たちより先に検死医が入っている。ガストン・ラシュだ」
ルシルの手が、止まった。
ガストン・ラシュ。
王都警察の主任検死医。腕章に勲章を三つつけて歩き、公爵家の葬儀を手がけたことを今も誇っているという話を聞いたことがある。
「もう『恍惚死』と断定して記録を書いているらしい。俺たちが確認する前に閉じられる」
「……行く」
「飯は」
「……現場で考える」
「考えてないだろ」
ルシルは答えなかった。
(恍惚死。神的体験による心臓麻痺という概念)
(でも――死体が、そんな嘘をつくはずがありません)
*
現場は教会付属の写字室だった。
長い机が並び、羊皮紙と羽ペンが整列している。修道士たちが聖典を書き写す仕事場だ。
その部屋の奥に、若い修道士が仰向けに倒れていた。
両腕が左右に開いている。顔は天井を向き、表情は穏やかだ。まるで何かに見惚れたまま、そのまま止まったような死に顔だった。
「来たか」
部屋の中央で腕を組んでいた男が振り返った。
四十代、顎髭を整え、白い検死医の長衣。左腕の腕章に、金色の勲章が三つ並んでいた。
「ガストン・ラシュ博士」とエリオットが告げた。
「異端審問局の記録官か」
ガストンの視線がルシルに移り、一瞬で眉が上がった。
「……修道女?」
「ルシル記録官だ。異端審問局の公式記録官」
「ふん」
一瞥して、すぐに視線を外した。
「手短に言う。被害者はアンリ修道士、二十四歳。昨夜の写経中に倒れ、今朝発見。死因は神の啓示による恍惚状態がもたらした心臓麻痺――恍惚死だ。記録書はすでに作成済みである」
「……」
ルシルは返事をしなかった。
すでに遺体の傍に、しゃがみ込んでいた。
「おい、私が話している最中だぞ」
「……計測する」
チャキ、チャキ。
真鍮のメジャーが、冷たく鳴った。
「計測? 何を計測する。死因はすでに確定している。君が確認するのは記録の書式だろう」
「……死体を見る」
「君に検死ができるのか。私は王都警察の主任検死医だぞ。公爵家の葬儀を――」
「……聞こえていますわ」
ガストンの言葉を遮り、ルシルは首元に視線を落とした。
(……点状出血)
首の皮膚の下に、かすかな赤紫の点が散らばっている。メジャーを当て、範囲を計測する。ドレスの袖にガラスペンを走らせた。
(頸部への外的圧迫の痕跡。心臓が勝手に止まった人間には、出ない変色)
次に体勢を確認した。
両腕の広がりを計測する。左右の角度。指先の向き。
(……誰かが並べた。自然に倒れた人間の腕が、ここまで美しく左右対称に開くことは、まず、ありませんの)
ガストンが後ろで何かを言っていた。
エリオットが静かにその前に立ちふさがった。声が少し遠くなった。
ルシルは遺体の足元に回り込んだ。
靴を確認する。それから――靴下を、片方、外した。
「何をしている!」
ガストンの声が、裏返った。
「靴下を脱がせているのか! なぜ! 死因は心臓だぞ! なぜ足を――なぜ靴下を――!」
「……足の骨を確認します」
「なぜ足の骨が心臓麻痺と関係が――」
「……倒れ方の再現に必要ですの。足の角度が教えてくれます」
「教えてくれる……? 足が……?」
ガストンが絶句した。
エリオットが静かに口元を引き締めた。笑いをこらえている顔だった。
ルシルは靴下を外し、足の内側を子細に確認した。細かな擦り傷がある。靴下で覆われていたため、ガストンは見ていない。
(引きずられた痕。この方は、ここで倒れたのではないわね)
靴下を丁寧に元に戻し、立ち上がった。
ガストンが腕を組み、盛大に眉をひそめてルシルを見ていた。
「……終わったのか。それで、私の診断に何か問題でもあると言うのか」
「……三つ、あります」
「な――」
「首に点状出血がある。頸部への外的圧迫の痕跡です。心臓麻痺では出ません」
ガストンの顔色が変わった。
「体勢が不自然だ。両腕が完璧に左右対称に開いている。自然に倒れた場合、ここまで揃いません。誰かが並べ直しました」
「そ、それは――」
「足の内側に引きずり痕がある。この方は別の場所で死に、ここへ運ばれた」
静寂が落ちた。
ルシルはメジャーをチャキ、と一度鳴らした。
「……あなたの記録書では、足を確認していない。靴下を、外しませんでしたわね」
「……」
「三流の推理です」
ガストンが何かを言いかけた。
しかしルシルはもうその方向を向いていなかった。
遺体の傍に戻り、机の上に目を移した。
写字の途中で止まった羊皮紙。羽ペン。インク壺。
そして――机の引き出しが、わずかに開いていた。
ルシルはしゃがみ込み、引き出しをそっと引いた。
中には、一枚の紙片が入っていた。
折りたたまれた、小さな紙片。
ランプの光にかざす。
(……この羊皮紙の質)
手が、わずかに止まった。
厚み。色。表面の均一な滑らかさ。
(書記長室でしか、使われていない羊皮紙)
折り目を開くと、そこには短い文字列があった。
指示書の断片だった。差出人の名前はない。
しかし最後の一行だけが、かろうじて読めた。
――記録は、処分せよ。
ルシルはしばらく、その紙片を見つめた。
感情は動かなかった。動かさなかった。
ただ、指先のメジャーをチャキ、と一度だけ鳴らした。
(……アンリ修道士は、何を知っていましたの)




