10 別れの時
お読み頂きありがとうございます。楽しんで頂けたら嬉しいです。
「実は、是非とも君に頼んでおきたいことがある」
自分に何か言いたいことがあるのではないか?という有沙の問いに対し、俺はそう答える。
彼は小さく頷くと、使命感に満ちた誇らしい顔で俺の言葉を待つ。
いや、頼みたいのはそんなに大したことじゃないんだがな......(汗)
「先程、子沙に書くように勧めた『孤憤』と『五蠹』のことだが」
「はい!!」
「子沙が書く時には、なるべく酒を飲ませてくれ。方法は任せる」
「はい??」
俺の言葉は、余程意外だったらしい。
ポカンとする有沙に、俺は理由を説明する。
「先も言った様に、『孤憤』は子沙の孤独と義憤を、『五蠹』は時代の流れとそれを阻む敵の糾弾を著すものだ。だが読む者をして共感を得るには、子沙の感情の迸りが足りない恐れがあるのだよ」
「あぁ.....そういうことですか」
有沙は片方の口角だけを釣り上げてニヤリと笑う。
聡い子だ、俺の意図するところをちゃんと理解したらしい。
「どうかお任せください。非老師が普段、心の奥にしまい込んでる黒い暗い想いを残らずぶちまけさせるようにいたしますので」
「.....た、頼んだよ」
......
.....
...
「ところで、君達はいつ頃まで楚に滞在するつもりなんだい?」
「いつ頃まで、ですか......実は近いうちに、と思ってはおりましたが、もう少し後になるかもしれませんね」
「ほう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、上目遣いで見つめてくる有沙。
まるで俺のせいだと言わんばかりだ。
「実は今日ご覧頂いた書ですが、非老師自身はあれで完成とするおつもりだったんです」
「おや、そうだったのかい?だとしたら俺は、随分と僭越なことを言ってしまったな。子沙が気を悪くしてなければ良いのだが」
「いえ、あれで良かったんです。不肖の弟子の分際で生意気ではありますが、私もあの書は未完成だと感じておりました。いいえ、理論は完成している筈なのです。ですが......」
「ああ、それを読ませるための工夫が足りない」
「その通りです。通古様のおかげで助かりました」
俺のねぐら(つまりは荀子のお屋敷)が近付いてきた。
「『孤憤』と『五蠹』でしたよね?その二編を非老師がお書きになったら、この地を離れることになると思います」
「そうか......もし可能であれば、写しを貰いたのだが」
「勿論です。非老師もきっと喜びます」
「そうかい?」
「ええ、通古様は非老師の数少ないご友人のお一人ですから」
「それは嬉しいことだね」
この言葉は、全く俺の本心だ。
元々、未来の俺自身の刑死を回避するために近付いたつもりではあったが、歴史上の偉人であるという尊敬の念以上に、今では大切な友人であるとも感じているのだ。
韓非も、そしてこの有沙少年もそうだ。
転生によっていきなりこの時代に放り出された俺も、韓非と同じく、深い孤独を感じていたということなのだろう。
彼等とは、生涯を通じて親交を続けたいと心から願う。
「通古様は、これからも楚におられるのですか?」
「いや、俺も機を見て楚を去るつもりだ」
「で、では、ぜひ韓へいらっしゃいませんか?非老師も喜びますし.....」
不安と期待に満ちた目で、俺のことを見上げる有沙。
これからも、孤独な韓非の近くにいて欲しいのだろう。
だが俺は首を横に振る。
「韓ではない。俺は秦へ行く」
「秦、ですか?」
「そうだ。秦に仕え、そして可能であれば、君達を秦に迎えられるようにしたいと思っている」
この後の歴史を知っているからこその俺の計画なのだが、当然のことながら、有沙には些か突拍子も無い話だったようだ。
「秦?何故、韓ではなく秦なのですか?」
「秦こそが、子沙の理論を、その想いを実現出来るからだ。有沙、君も分かっている筈だ。あの書を完成させたところで、子沙が韓で重用されることはない。そうだろう?」
それを聞いて、哀し気に目を伏せる有沙。
だが俺の言葉を否定はしない。
「ええ、きっとそうでしょう。非老師は韓の王室では冷遇されてますし.....それに.....吃音だと蔑む人も多くおります」
「それについては誤解なのだがな.....いや、仮にそうだったとしても、そんなことで人を評するなど愚の極みだ。低俗な物差しか持っていないと自ら白状しているのだからな」
「そうですよね.....有難うございます」
屋敷に着く。
「听と言ったか?あの護衛の狗がいるから大丈夫なのだろうが、それでも十分に気をつけてな」
「はい、お気遣い有難うございます。通古様、これからも非老師のことを、どうかよろしくお願いいたします」
「無論だ。俺の方こそ、これからもよろしく頼む」
月明りの中を帰ってゆく有沙の足取りは、心なしかいつもより軽いように感じられた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから程無くして、泥酔した(させられた?)韓非によって『孤憤』と『五蠹』が書き上げられた。
有沙がうまく取り計らってくれたようで、韓非の心情がありありと著されていた。
前世の記憶よりも表現が過激になっている気もするが.........ま、これはこれで良しとしよう(汗)
......
.....
...
さらに二月程が経ち、いよいよ、韓非と有沙が韓へと戻る日。
俺は城塞の外まで彼等を見送り、後日の再会を約束した。
「いずれ、また君と、美味い酒を酌み交わしたいものだね」
「ああ、必ずな。それまでにあの書を完成させてくれよ。『孤憤』と『五蠹』の写本は有沙に手配してもらったが、他の編はまだまだ手直しをするのだろう?」
「うむ、そのつもりだ。荷物になるので、先に韓に送ったのだが。それでだね、通古、君に是非、あの書の名を付けて欲しいのだが」
「決まっている。書の名は、『韓非子』だ」
「な........」
絶句する韓非。
その背を、苦笑しながら有沙が馬車へと押し込む。
「それでは通古様、また後日、必ずやお目にかかりたく」
「秦にも、美味い酒があるのかどうか、探しておいてくれよ」
「ああ任せておけ。それじゃあ二人共達者でな」
こうして彼等は楚を去っていった。
......
.....
...
その翌月、俺も荀子の元を辞し、秦へと向かう。
その頃になってようやく、書の名を「韓非子」でなく「韓子」にすべきだったのではと気付いたのだが、それでもまあ「韓非子」の方が良いだろうと思うことにした。
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