2005年5月 埼玉県K市(1)
「百個のアイマスクと耳栓を取って来てくれ」
「どこにあるんですか?」
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
また記憶が再生される。
中学三年のゴールデンウィークに、校舎の屋上で天体観測をする課外授業が行われた時の記憶だ。
「理科室にある。先に一人教材を取りに行ってるから、手伝ってやってくれ」
夕方、学校に着いたら課外授業を主催する理科教師に言われ、ぼくは校舎の二階にある理科室へ行った。
立て付けの悪い扉を横に開くと、教室の中に津々美つづみさんが立っていた。津々美さんはぼくを見て驚いた顔をした。ぼくも喉から胃が飛び出すほど驚いた。心の準備がないまま理科室で津々美さんと二人きりになった。
「あの、その……」
自分の唾を飲み込む方法がわからなくなるほど動揺した。津々美さんはじっとぼくの目を見ている。
「先生に、教材とかアイマスクとかを持ってくるように言われて……」
津々美さんの手元を見ながら、絞り出すような声でなんとか言葉を繕った。
理科室の窓から見える校庭には、校舎の大きな影が伸びていた。その影の先の桜の木の外側で、鯉のぼりが黄金色の空を泳いでいる。
「じゃあ半分づつ持とうか」
優しい声音がぼくの耳に届く。
「一人で屋上まで持っていくの、大変だなって思ってたんだ」
ぼくはうなずきながら両手を差し出して、彼女から半分くらいの教材を受け取った。その時、ぼくの左手と彼女の右手が少し触れた。
遠い国の森の奥の鍾乳洞にある透明な地底湖の水面に、ひとしずくの水滴が落ちた時のような、丸みをびた清純な音がぼくの心の中に響いた。
二人で理科室を出て、オレンジ色のセロファン紙をすかしたような夕焼けの光線が斜めに差し込む静かな廊下を歩いた。津々美さんの黒髪がさらさら揺れ、シャンプーの甘い香りが漂う。
「私の家の前には、空き地みたいな庭があるの」
「知ってる」と言いそうになった。庭があることも、時々下着が干してあることも。
廊下の突き当たりの踊り場に着くと、何人かの参加者がバタバタと音をたて屋上へ駆け登って行った。
「あのさ、誕生日っていつ?」
津々美さんが階段の途中で振り返って僕に聞いた。ぼくはなるべく平静を装って自分の誕生日を答えた。
「八月一日」
「獅子座かぁ……」
昇降口から屋上へ五月の風が吹き抜ける。彼女の髪とスカートの裾がふわっと揺れる。
「私よりひと月年上だね。私は乙女座なんだ」
校舎の屋上に出ると、参加生徒たちがそこここに集っておしゃべりをしていた。屋上から見下ろす家並みには明かりが灯り始め、残照に照らされた雲の影を鳥の群れが横切る。誰もが星を見る事より、学校に泊まれることに興奮していた。
ぼくと津々美さんは、理科室から運んできた教材やアイマスク、耳栓を、演台の前に置いて、言葉も交わさずに別れてそれぞれのクラスの輪に加わった。
しばらく高揚した生徒たちの会話でざわついていたが、何かの気配で波が引くように静まり返り、全員が一斉に屋上の出入り口に注目した。そこに理科教師が姿を現す。
「これから天体観測会を始める」
興奮と熱気に包まれた大きな歓声と拍手がわき起こった。
最初にクラスごとに出席者の名前が確認され、それが終わると教師が五月の夜空を説明をした。
「今夜は新月だから星がとても良く見えるぞ」
五月の夜空では、乙女座や獅子座の他に「かみのけ」とか「六分儀」とか「ほ」とか、随分変わったものが星座になっていた。理科教師は普段の授業で見るのとは別人のように知的で優しい。
「星の王子様が住んでいる星はどれですか?」
女子グループに天文学とは関係ない質問をされても「大切なものは目には見えないんだ」と真面目に答えていた。
天体望遠鏡でスピカを見せられたとき、それが乙女座の星だと教えてもらい胸がドキドキした。獅子座は乙女座の隣にあることを知ってさらにドキドキした。でもそれは地球から見て隣に見えるだけで、例えば乙女座のスピカと獅子座のレグルスは、百九十光年以上離れているらしい。光は一秒間に地球を七周半する、と先生が教えてくれたから、百九十光年というのは途方もない距離だ。今ぼくたちが見ている星の光は、何十年も何百年も宇宙空間を旅して現在の地球に届いている。もしかしたらその炎はもう燃え尽きてしまっているかもしれない。そう考えるとなんだか恐ろしくなった。
「来年の九月には部分月食、再来年の八月には皆既月食が見れるぞ」
その時、高校生になっているぼくは、誰かとその月食を見るのだろうか?
津々美さんは、大勢の女子に囲まれ楽しそうに笑っていた。時折、新緑の木々の香りを含む夜の風が、火照ったぼくたちの頰をひんやりとかすめてそよぐ。銭湯の煙突の先の方で、犬の遠吠えが響いていた。
「ここからは自由観察にする。観察ノートを書き終わったらおしゃべりしてもいいし、寝たいものは寝ていいぞ。アイマスクと耳栓も用意してある」と言われたが、本気で寝入る者はいなかった。
全員が屋上に残り、仰向けになって満天の星空を見上げる。中学生のぼくたちにとって今この瞬間は、瞬きをしたら消えてしまいそうな遠い星の光のように、はかない時間だということを誰もが知っている。
「星ってこんなにたくさんあるんだ」
暗い屋上のどこかで誰かが言った。眼前に迫ってくる宇宙空間の途方もない広がりに押しつぶされそうな孤独を感じながら、手放したら二度と元には戻らない今という瞬間を、共に旅する仲間の存在に勇気付けられる。六等星より暗いかすかな希望を小さな胸に抱えて、みんな今日を精一杯生きている。
そのうち、男子や女子や男女混合のグループの輪があちらこちらにでき、天体観測とは関係ないおしゃべりが始まった。好きな人の名前を言い合ったり、親や学校や先生の愚痴で盛り上がったり、漫画やゲームやアニメの話をしたり、意味もなく笑い転げたりした。どこかの家の開けた窓からナイター中継の音が聞こえている。カープが逆転したらしい。
「夜中に理科室から気味の悪い物音や叫び声が聞こえるらしいぜ」
「中一のクラス写真に、小学校のとき死んだ子が写ってたって」
いつの間にか、水木くんや湖山さんが話す「学校の怪談」の輪に、大勢の生徒が加わって聞き耳を立てていた。
「それって理科室?」
「音楽室もやばいらしいよ」
西校舎は江戸時代に処刑所だった場所に建っている、と誰かが話している。
「偵察に行ってみようぜ」
何人かが立ち上がる。ぼくたちのグループもつられて立ち上がる。他のグループの男子や女子も立ち上がり、屋上の出口へ向かう。決めかねた様子だった津々美さんのいる女子グループも、立ち上がってついて来た。




