2005年2月 埼玉県K市
とても深い眠りから、起こされる。
目覚まし時計を止め、一、二の三で、暖かい布団から這い出す。それから防寒着に着替えて、吸い込んだ息で肺まで凍りそうな真冬の風が吹き付ける、夜明け前の暗闇に自転車を漕ぎ出す。
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
冬休みに始めた新聞配達は、年が明けて新学期を迎える頃にはミスがなくなり、新聞販売所の責任者の表情も、日に日に穏やかになった。ぼくの気持ちも軽くなり、新聞配達所に向かって自転車を漕ぐペダルが軽くなっていたのを思い出した。
二月になると、受け持ちエリアは百件から百五十件に増えた。それでも脳内で働く記憶のメカニズムは効率的に作業をこなし、追加になったエリアの記憶マップはすぐに完璧なものになった。
——どうしてこの時の記憶がなくなっていたのだろう?そしてどうして、今突然それらが押し寄せる波のように思い出されるのだろう?
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
そうだ、部数が増えて大変になったことが二つあった。
一つは配達時間の問題。配達完了までに要する時間が長くなったが、ぼくは学校があるので、終わりの時間を伸ばすことはできない。初める時間を早くする以外に選択肢はなかった。そのため寒い冬の早朝に布団から這い出す作業は、一層辛いものになった。
もう一つは重さの問題。新聞には広告が織り込まれている。広告が多い日の百五十部は絶望的な重さになる。
大人の配達員はバイクで配るけど、中学生のぼくは自転車で配らなければならない。自転車の荷台に、スーパーの特売チラシや、バイパス添いにオープンした健康自然食センターの案内や、新車の試乗会でキリマンジャロコーヒーが当たる抽選キャンペーンのお知らせや、トランス脂肪酸から体を守るための健康セミナーなどの広告(こんなに細かなことまで思い出せる! )が挟まった新聞を積んで走ると、酔っ払いの大人を乗せているみたいに荷台が重くなる。
ある時、完全に平らではないところに自転車を止めたため、風が吹いて自転車が倒れた。新聞も広告も土砂崩れのように地面に散らばった。そんな時に限って大きな水溜りがあって、新聞も広告もびしょ濡れになってしまった。
またある時は、下り坂でスピードを出してカーブを曲がったら、荷台にくくりつけていたゴムひもが重さに耐えきれず切れてしまった。横綱が番狂わせで敗退したときの座布団の舞のように、新聞や広告が派手に宙に舞った。
それでもぼくは、毎朝新聞を配った。
以前より一時間早く起床し、耳がちぎれるほど寒い夜明け前の町で、重たい自転車を漕いで新聞を配った。
新聞を一件分配ったところで、自転車の荷台の重さはほとんど変わらない。石灰を含んだ雨水の一滴が、途方もない年月を経て鍾乳石になるように、一件ごとの成果は、実感できないほど微細な前進だ。でも、それを積み重ねると確実にゴールに近づく。
もともとそう言うタイプの作業が性分にあっていたのか、あるいは新聞配達の仕事を通じてそういうタイプの作業が好きになったのかはわからない。でも、それがその後のぼくの勉強の仕方や考え方に影響を及ぼしたことは明らかだ。
軽くなっていく荷台を感じながら見上げると、オリオン座が消えた後、南の空にサソリ座が昇ってくる。冬の早朝に真夏の星座を見る。季節を飛び越え、ぼくだけが一足先に夏を覗いた優越感に包まれ嬉しくなった。
そして最後の一部を配り終えてペダルを踏み込んだ時、タイミングよく朝日が昇る。影が長く伸びる夜明けの街で、配達を終えた充実感に満たされながら、清々しい朝の光に全身を包まれる。かじかんだ指先や耳たぶが、太陽光線の温もりを吸収していく。この神々しい自然のドラマを毎朝独占して拝めることに、心から感謝していた。
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
もうひとつ、大事なことを思い出した。
新聞配達には密かな楽しみがあった。
それは新しい配達分担の中に、中学校で一番美しい女の子の家があったことだ。
津々美麗羽つづみれいわ
名前を思い浮かべるだけで、顔が火照り体が熱を帯びてくる。津々美さんとは、一度も話をしたことはなかった。その学校に転校して、初めて廊下ですれ違った時、彼女が纏う風が一瞬でぼくの心を虜にしたのだった。
蘇った記憶で体中が熱くなっていくそのことが、さらに別の記憶を呼び起こす。
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
ある朝、いつものように空き家の前の庭を通り抜け、津々美さんの家に行くと、離れの軒下に白いものがぶら下がっていた。
よく見ると、それは一組のブラジャーとパンティーだった。
心臓が激しく脈打つ。自分の足で地面を踏んでいる感覚がなくなる。気がついたら離れに近づき、その下着を凝視していた。心臓の鼓動がさらに早くなる。口の中がカラカラに乾く。下半身に血流が集中し、Gパンの股間が熱くなった。
これは夢か?
手を伸ばしてその下着に触れようとした。でも思うように手を動かせない。自分の体が自分のものではなくなったような感覚だ。
違和感を感じ気になって股間を見たら、るみが僕のズボンとブリーフを下ろし、僕のペニスをピンクのネイルの指で握り、じっと見つめていた。それは僕のペニスじゃなくて、どこかの国の戦闘機の操縦桿のように見えた。
それからるみは、少女のようなあどけなさが残る唇で僕のペニスを柔らかく含み、ゆっくりと生暖かい舌をまとわりつかせる。湿り気を帯びた綿菓子が、次々とペニスに絡まるような繊細で甘い刺激に、僕の脳は沸騰し体を動かすことも声も出すこともできない。
るみはイリュージョニストが、がんじがらめに縛られたチェーンを解いて炎の中から脱出するように、はらはらと自分の衣服を脱ぎ捨て、僕の上にまたがった。操縦桿を片手で握り、それを結合部に誘導する。
濃厚接触——
ソファーから見上げるるみの顔は、暗がりでよく見えないが、シーリングファンが作る微かな光の揺らぎが、海底に沈んだ難破船の周りを漂う透明なクラゲの影のように見えた。
体内に硬い操縦桿を飲み込んだるみは、腰をゆっくり回転させながら次第に上下に強く振動させる。
激しくなった雨粒が、バルコニーの窓にぴしゃぴしゃと音を立てて当たる。二人の体重が乗ったソファーが、ギシギシと不規則なリズムを刻んできしむ。体を動かせず声も出せない。現実味のない性行。脳がハッキングされるとこんな感覚になるのだろうか?
やっとの思いで鉛で塗装されたような痺れる手を動かし、両手をるみの乳房に添え鷲掴みにした時、狼の遠吠えのような低音のうめき声が部屋中に響き渡り、全てが真っ白な光の中に消滅した。




