2020年2月12日 フロリダ(4)
「オリオンファーマシーって、ドラッグストアの?」
るみはこくんうなずいた。
オリオンファーマシーは、東京多摩地区と埼玉県西部を中心に展開するドラッグストアのチェーン店だ。
「ボクはオリオンファーマシーでレジのバイトをしてた」
日本で最初の新型肺炎ウィルスの感染者が確認された一月十五日以降、るみが働くオリオンファーマシーでも、マスクやトイレットペーパーの買いだめが起きたという。
「顔なじみのお客さんは、いつも笑顔で話しかけてくれていたのに……」
そう言ってるみは下を向いてしばらく沈黙した。
「どうしてマスクがないのか?あなたがするマスクはあるのに客に売るマスクがないとはどう言うわけだ! ってみんな人が変わっちゃったみたいになった」
そのうちティッシュペーパーや生理ナプキンも無くなった。商品がなくなると、店頭にはさらに多くの人が殺到して「本当は隠しているんじゃないか」「気を利かせて一個くらい取り置きしないさいよ」ときつい言葉を浴びせるようになったらしい。
それをマスコミが大袈裟に報道すると、さらにたくさんの客がパニックになって店に押し寄せる。
るみはオリーブマリネをフォークで刺して口に運んだ。オリーブマリネをかじるるみの口は、獲物を捕獲した軟体動物のように動いた。僕はクラッカーに生ハムを乗せて、破片がこぼれ落ちないように慎重にかじった。
「ウィルスより怖いのは人間だよ」
客が店に殺到して混乱しているのに、電話もひっきりなしにかかってくる。電話に出ようとすると目の前のお客がキレるし、電話に出れば「遅い」と電話の相手がキレる。電話が鳴るたびにストレスを感じ、ノイローゼになりそうだったと言う。
「笑っちゃうでしょ、ウィルスのせいで結婚式も延期になっちゃった」
グラスをテーブルに置き、体を浮かせて、またスカートの裾を膝の方に引っ張った。
「結婚式が延期……」
「相手が、親戚とか会社の上司とかの顔色を気にしちゃって。それでね、その時気づいたの、ああ、この人にとって結婚って世間体なんだって。ボクのことより、会社とか親戚の評価の方が大事なんだなって」
僕はワイングラスを持ったまま、ため息を吐きながら首を左右に振った。
「もう結婚もバイトもどうでもよくなっちゃって、一人で日本を飛び出してきたの」
「アメリカのお金を持たずに?」
るみは肩をすくめてくくくと笑いながら「フロリダに来ることは、高校生の頃からの夢だったんだ」と言った。栗色の髪がサラサラ揺れる。
「新婚旅行はケネディー宇宙センターで、アポロ十一号の発射台を見学する予定だった」
「じゃあ今は高校生の時の夢がかなったんだね」
「うん、そうなる、形はどうあれ」
胸に詰まっていた思いを一気に吐き出して楽になったのか、穏やかな表情になった。
「ねえ、バルコニーに出てみない?」
るみはワイングラスを持って立ち上がり、リビングの大きなガラス戸を引き開けた。途端に雨の音が部屋の中に響いてくる。しかしそれは雨が激しく降っているのではなく、湖面に落ちる雨粒が滝のように水音を増長させている音だ。まるで本物の滝がそこにあるような音。でもその滝は、ヴィクトリフォールとかイグアスフォールのような地球の裂け目に落下する巨大瀑布じゃなくて、カウアイ島のジャングルの中に、ひっそりと白いしぶきを弾かせながら舞い降りる小さな滝だ。ベニハワイミツスイとカメハメハバタフライだけが知っている秘密の滝。
バルコニーで夜のフラミンゴレイクを見下ろしながら雨音を聞いていたるみは、急に眠いと言い出した。僕もるみも、日本から二十四時間近くかかってフロリダに到着した。その間ほとんどまともに寝ていない。
るみは僕にワイングラスを預け、ふらふらと寝室のドアを開ける。ベッドに横たわると、ジャングルで遭難して何日も彷徨った挙句救出された生還者みたいに、あっという間に寝落ちてしまった。僕も強い睡魔に抗えず、食事の後片付けもしないままリビングのソファーに横になり、一瞬で深い眠りに落ちた。
とても深い眠りに——




