2020年2月12日 フロリダ(3)
「お腹が減っているので何か作るけど、君も食べる?」
キッチンに立って、スーパーで買ったものを袋から取り出しながら聞いた。
「うん」
リビングのソファーに座ったるみが返事をする。
座る時、るみのワンピースの裾が上がって、白い太腿の上の方まで露出した。
スーパーで買った肉や牛乳を冷蔵庫にしまいたい、という理由で僕の部屋に連れてきたが、そのこと自体は嘘ではない。小腹を満たしたら彼女のホテルまで送って、僕が立て替えた買い物代金を精算してもらうつもりだった。
料理をする前に、スマホのプレイリストから「マッコイ・タイナー」を選んで、ブルートゥース対応ワイヤレススピーカーに音楽を飛ばす。
雨の夜に女の子とお話をするには、これ以上ない最適なBGMかどうかはわからないが、これから作る料理のレシピと手順を考えながら選んだにしては、かなりまともな選択だと思った。
間接照明が灯る柔らかな光のリビングに、マッコイ・タイナーが奏でるピアノジャズが雨音のように流れる。
瀟洒な旋律を聴きながら、フライパンにオリーブオイルをたっぷりひいて、みじん切りにしたニンニクを弱火で炒める。ニンニクの粒から、じゅーという音を立てて水分がはじける。ニンニクを炒めながら、細長いバゲットを輪切りにカットして、オーブントースターで温めた。
香ばしく焼きあがったバゲットをトースターから取り出し、一切れづつフライパンで炒めたガーリックオイルを塗る。その数枚の上に、ツナを乗せ胡椒をふった。別の数枚にはダイス切りしたトマトとモッツァレラチーズをのせて岩塩をふり、別の数枚にはイワシのオリーブオイル漬けを乗せる。残り数枚には、サラミと玉ねぎとオリーブマリネを乗せた。それを白い大皿に並べて盛る。木製のカッティングボードも取り出して、そちらにはブリーチーズとパルミジャーノ・レッジャーノ・チーズをカットして盛り、その横に生ハムとピクルスと数枚のクラッカーを添えた。
「君は料理人?」
リビングのローテーブルにブルスケッタを盛った白い大皿と、生ハムとチーズとクラッカーを盛ったカッティングボードを運ぶと、るみは二つの皿を交互に見ながら質問した。
「違うよ」
「じゃあ、以前料理人だったとか?」
ソファーから身体を浮かし、スカートの裾を引っ張って太腿を隠しながらるみが聞いた。
「料理人だったことも、飲食店でアルバイトをしてたこともない」
そう答えると、金魚すくいのポイが破れたときのような残念そうな表情で僕を見た。
「自分が口にするものは、安全性を確かめたものにしたいと思ってきた。すると自然に、自分で食材を買って料理を作る機会が増えたんだ」
冷蔵庫からスーパーで買ったマーガリンを持ってきて、るみに見せる。
「さっき買ったこのマーガリンだけど、ラベルの原材料欄に『トランス脂肪酸ゼロ』って明記されているでしょう? アメリカでは食品衛生局がトランス脂肪酸の使用を禁止しているんだ。でも日本では禁止していないから、様々な食品に含まれている。そのため多くの人が毎日せっせとに体に供給し、重篤な病気になっている」
「神殿にひざまづくときはぼくたちは信心家ぶりましょう。けれどベッドでからみあうときはぼくたちは淫らになりましょう。褥しとねの中で、浮かれて、愛の百手をくりひろげ、心ゆくまで楽しむ」
「——何それ?」
「ピエール・ド・ロンサール。マドレーヌ王女に仕えた十六世紀のフランスの詩人」
だけど日本では、その名前はバラの品種名としての方が有名だと言う。
「バラの名前になったフランスの詩人?」
「ねえ、ワインが飲みたくなった。ボクって美味しそうな料理を見ると、ワインが欲しくなっちゃう人なの」
自分のことを「ボク」と呼ぶ女の子は珍しくないかもしれない。年上の男性のことを「キミ」と呼ぶ女の子よりは。
食器棚からワイングラスを二つ取り出し、スーパーで買ったナパの赤ワインを注いだ。
「とりあえず乾杯」
グラスを掲げ軽く合わせる。一口すすってテーブルに置き、生ハムを口に運んだ。
「それで料理人でないとしたら、君は一体何の仕事をしてるの?」
「僕は、記憶のメカニズムの量子力学的変換に関する研究をしている」
るみはローテーブルの上の一点を見つめた。そこに漂う量子力学的に変換された記憶のメカニズムを探そうとするように。サラミのブルスケッタを手に取り「さっき君は西海岸の大学に行ってたって喋ったよね?」と質問した。
僕は静かにうなずく。
「西海岸の大学でも、君は記憶のメカニズムの量子力学的変換について研究してたの?」
「うん、在学中も卒業した後も、そして現在も」
「その、記憶のメカニズムの量子力学的変換に関する研究って、具体的にどんなこと? って言うか何の役に立つの?」
僕はボトルを持って、るみのグラスにワインを注ぎながら答える。
「簡単に言うと、脳の中にある思い出を映像化する技術の研究だ」
るみはパルミジャーノ・レッジャーノの小さいかけらを口に放り込み「君、それは全然具体的な回答じゃないよ」と言って、ほっぺたを風船のように膨らませた。ティックトックでバズっている「変顔」のようだ。でもるみのような美人がやると、胸がキュンとするほど可愛く見える。るみのスカートの裾がまたギリギリまで上がっていたが、僕は平然とした顔で説明を続けた。
「じゃあ、もっと具体的に説明する、君が初めてセックスしたのはいつ?」
ワイヤレススピーカーからはマッコイ・タイナーの奏でる「ウー・ウィル・ビー・トゲザー・トゥナイト」のピアノの調べが静かに流れる。バルコニーのガラス扉に当たった雨の雫が、透明な夜の光を映しながら流れ落ちる。
「十六の時」
十六拍続いた濃度の高い沈黙のあとでるみが答えた。
「それが君にとって良い記憶なのか、悪い記憶なのかはわからない。でもその記憶は君の脳の中に量子的データとして保管されている。ここまではわかる?」
「多分わかる、初めてのセックスも量子的データなんだね」
「僕が研究しているのは、脳の中の記憶を、スマホやパソコンのディスプレイで、映像として再生して見ることができるようにする技術だ。その始めてのセックスの映像は、るみの視覚が捉えた記憶だから、映画のような第三者的な見え方はしない。るみの目が見た通りに再生される」
「別にそんなの見たくない」
るみは視線を落とし、オイルサーディンが乗ったブルスケッタを手に取った。僕もオイルサーディンのブルスケッタを手に取り、グラスのワインを一口すすった。
スピーカーから流れる曲が「コンテンプレーション」に変わった。雨自身が嫉妬するくらい雨の夜にあう曲だ。
「じゃあ、質問を変えよう。君は初恋の人を覚えている?」
「覚えているよ、池田くん、小学校一年生の時の担任の先生」
「へー、担任の先生か、それが君にとって楽しい思い出ならいいんだけど」
「ボクにとって、宝物のような思い出」
そう言って両手を広げ自分の爪を見つめた。そのネイルデザインは、現在のるみの宝物なんだろうか。
「でも、思い出せない部分もたくさんある、昔のことだから。写真に撮ってないありふれた日常とか。そういう当たり前に流れていた時間の中に、本当に大切な宝物があるんだって思う」
「人の脳の中には、生まれて現在まで体験してきた、すべての映像が量子情報として保管されているんだ。思い出せないと言うのは、記憶されているけど、どこにしまってあるのかその保管場所が思い出せない状態なんだよ」
僕はトマトとモッツァレラチーズのブルスケッタを手に取ってかじった。
「じゃあ、自分では思い出せない記憶もスマホで見れると言うこと?」
「そうだよ、スマホだけじゃなくパソコンやテレビのモニターでも見れるし、静止画をプリンターで印刷することもできる。SNSで友達や家族と共有することだってできる」
バルコニーの外では、雨が静かに降り続いている。シーリングファンが室内の光をかき乱し、ワイングラスが反射する照明が、プロジェクションマッピングのような影を壁や天井に投影した。
「一定の年齢より上の世代の人は、子供の頃の写真が残念なくらい少ない。今から六十年、七十年前はカメラもフィルムも、写真を現像することも高価だったんだ。生まれて中学を卒業するまでの写真が、アルバ一冊分もないという人もたくさんいる。そんな人たちにとっても、これは画期的なサービスになると思う。人生の大切な思い出や懐かしい場面を、画像や動画で再生できるんだから。それはタイムマシンに乗って過去に戻り、人生を、青春時代を再現するような感覚だと思うんだ」
「ふーん。それで君はそれを商品として発売するつもりなの?」
「そうだね、でも今のところ音声の再生はできない」
僕はブリーチーズをクラッカーにのせた。それを口に運びながら説明を続ける。
「それと、ちょっとした問題がある」
「問題?」
空になったカッティングボードを持ってキッチンへ行き、チーズとクラッカーとオリーブマリネを足した。明日またスーパーへ行って食材を補充しなければいけないと思った。
「そう、問題がある。それは脳のハッキングに対するセキュリティーの問題だ」
アンティパストを盛ったカッティングボードを持ってソファーに戻り、自分のグラスに自分でワインを注いだ。
「世の中には私の記憶を見て欲しい、私の人生を知って欲しい、と言う人もいるだろう。他人の記憶を覗いてみたいというニーズもある。それは他人の人生を生きるようなものだ。もしかしたら他人の人生を見たい人と、自分の人生を見てもらいたい人との間でSNS的な人生交換サービスみたいなものが始まるかもしれない。この技術が普及したら、カメラの性能や写し方ではなく、その人の生き方そのものがインスタ映えの対象になるだろう」
るみはクラッカーを手に取ったままじっと僕を見ている。
「でも一方で、自分のプライバシーを覗かれたくない人もいるよね? この技術を悪用すれば、誰かの秘密の体験を、他人がハッキングして動画で再生することが理論的には可能なんだ。脳をハッキングから守る方法を確立しないとまずいことになる」
るみはワイングラスに視線を落とし小さなため息を吐く。僕はちょっと長く話し過ぎたようだ。
話題を変えようと思い「君は日本では何をしてるの?」と質問した。
るみは顔をあげ逆に僕に質問をした。
「オリオンファーマシーって知ってる?」




