2020年2月12日 フロリダ(2)
「どうしてエラーになるんだろう……」
ベージュのワンピースの上に、オフホワイトのツイル袖ボリュームブルゾンを羽織ったるみは、僕のレンタカーの助手席で細い足を組み、クレジットカードの表と裏を交互に見つめて呟く。
僕はゆっくり車を発進させながら「スマホと一緒に持ってるとカードの磁気情報が消えることがあるらしい」と言った。
「そんなこと知らない」
るみは前方を見たまま不服そうに答えた。
駐車場を出て信号を左折し、南へ向かう高速四号線に合流する。
「フロリダにはいつ来たの?」
柔らかな早春の雨に煙る夕暮れの高速四号線は、車のテールランプがずっと遠くまで点滅しながら続いている。まるで水の枯れた川を、国境を目指して歩く難民の集団のように見えた。
「今日」
栗色の髪を指で掬いながら、るみが無感情な口調で答えた。
カーラジオから透き通った男性ボーカルの曲が流れる。
「君って、ここに住んでる人?」
「いや、僕も日本からの旅行者だよ」
僕は、少し前進してはブレーキを踏みながら言った。
「スーパーで食料品を買ったり、車を運転しているから」
「こっちに住んでる人に見えた?」
るみが首を縦に振る。
「僕は以前、西海岸の大学に通っていたから、それで」
フロントガラスにまとわりつく霧雨を、時折ワイパーが払う。
反応がないので助手席を見たら、るみは逆フレンチスタイルのクリアピンクに塗られたネイルの指でスマホを取り出し、車のコンソールの写真を撮ろうとしていた。
「何してるの?」
「ここに、曲名が出てる」
カーオーディオの画面を覗くと、今FMラジオで流れている曲名とアーティスト名が表示されている。
「ルイス・キャパルディ」の「サムワン・ユー・ラブド」
昨年全米ヒット曲チャートで一位を獲得したラブソングだ。雨がしとしと降る夕暮れ時に、異性と二人でドライブ中に流れるといいムードになる。
「『サウンドハッカー』は知らないの?」
「なに、それ?」
「音楽を拾って曲名を教えてくれるスマホの無料アプリだよ」
車の流れが止まった時、スマホを出してサウンドハッカーのアプリを立ち上げて見せた。
「この『周囲の音楽を認識する』をタップすると、周りで流れている音楽の情報を拾ってくれる。ダウンロードしてプレイリストを作れる。自動モードにしておくと、自分の好きそうな音楽を勝手に拾ってくれる。便利なアプリだ」
「ふーん」
さして関心なさそうに返事をして、るみはラジオから流れるバラードに耳を傾けた。
スーパーを出た時より、雨は幾分強くなっている。窓の外の景色が、ピントの合ってない写真のようにぼやけ、街灯や車のライトや看板の光が、滲んだ霧の中に浮かび上がる。
「サムワン・ユー・ラブド」が終わり、続いて昨年ヒットした「ジョリーボーイ・アンド・レオバッシュ」の「ミエントラス・タント」が流れた。ラテン系アップテンポバラードで、これも雨の夕暮れのドライブで聴いたら切ない気持ちになる。ラジオ局のDJは、出会ったばかりの僕たち男女二人が、車に乗っていることを知っているのだろうか?
フラミンゴ・レイク・リゾートのエントランスゲートに到着し、守衛に部屋のカードキーを見せる。ゲートが開き、ビジターセンターのアーチをくぐって、敷地の中に車を進ませた。ロイヤルパームの並木がライトアップされたメインストリートの先の夕闇に、湖が見えてきた。対岸には南欧風外観の客室棟が霧雨に霞んでいる。湖畔に沿って半周ほど走り僕の部屋がある客室棟の駐車場に車を停めた。
建物に入ると、エントランスホールでエレベーターのドアが閉まりかけるところだった。僕は両手にスーパーの袋を抱えたままエレベータに駆け寄り、ドアに片足を突っ込んだ。セーフティシューがパタンと足にあたり、再びドアが開く。
「何階?」
「十一階」
るみと二人でエレベータに乗り、途中の階で止まることなく十一階に着いた。ドアが開くと、湿った生暖かい風に弾かれた亜熱帯の植物の芳香が充満している。
「ちょっと待って」
部屋の入り口で、るみは買い物が入ったレジ袋を足元に置く。
何をするのかと思ったら、背筋をピンと伸ばし、左手を胸の前で横に曲げて手の甲を自分の右胸に向けた。右手は上腕をあげてその甲を自分の右耳に当てる。その姿勢のまま少し足を広げ、ゆっくりと三回膝の曲げ伸ばしをした。小声で何か呟いたが、雨の音で聞きとれなかった。
部屋という閉ざされた時空に入る時、人間の心と体の波長がそれに調和するよう、潜在思念を浄化し存在に感謝するルーティーンを行わなければならないのだという。るみの説明によると、世界中で多くの人がそれを怠っているため、悲劇が繰り返し起きるらしいが、意味がわからなかった。
僕は、その波長を調和させるという作業をやらないで部屋に入った。




