2020年2月12日 フロリダ(1)
さっきから僕が並んでいる列が動かない。
食材を入れた大型カートを押す買い物客たちは、背伸びしてレジを覗き込んだり、苛立った顔で舌打ちしたり、手のひらを上に向けてため息を吐いたりしている。
身を乗り出して前方を見ると、女性の買い物客がレジの店員と揉めているのが見えた。買い物客は、おそらく二十代、アジア系、、、、日本人のように見える。英語が不得手なのか、あるいは全く話せないのか、会話が噛み合っていない。
僕は思い切って日本語で声をかけてみた。
「どうされましたか?」
列に並んでいる大勢の買い物客が一斉に僕の方を見た。
少し遅れてその女性も振り返る。栗色の髪がふわっと膨らむ。
「このおばさん、マジ使えない」
女性はレジの店員を横目で見ながら、棘のある声で僕に答えた。
「他のクレジットカードか、現金をお持ちでないか、聞いていただけますか?」
レジの店員は、すがるような目で僕に英語で話しかけた。
「それ以外のクレジットカード持ってないですか?」
「カードはこれだけ」
「じゃあ、現金は? ドルは持ってない?」
「アメリカのお金は持ってない」
バターの香ばしい香りと陽気な音楽に乗って「当店自慢のアップルパイが焼き上がりました」と店内放送が流れた。「ただ今から十分間、二個買うと三個目が無料になる、大変お得なタイムサービスが始まります」
放送を聞いて買い物客の一部がざわついたが、列を離れてアップルパイを買いに走る者はいなかった。
「よかったら僕のカードで一緒に支払いましょうか?」
女性は黙ったまま僕の目を見つめる。
「後で、円で精算してくれたらいいですよ」
彼女は自分のカートに入っている品物をちらっと見た後、また僕に視線を戻し「そうする」と答えた。
僕が彼女の分も一緒にカードで決済するとレジの店員に英語で伝えると、店員は満面の笑みを浮かべありがとうと言った。僕の前の買い物客たちがカートをずらして通路をあけ、「そういうことならお先にどうぞ」と僕をレジに通してくれた。ことの成り行きを見守っていた何人かの買い物客は、アップルパイ売り場へ駆け出した。
「ボクはるみ」
店員がバーコードを読み込み、商品をレジ袋に詰め込んでいくのを見ながら女性が小さな声で言う。
苗字ではなく下の名前で名乗ったことに僅かな違和感を覚えたが、店員の急かされるような視線に我に返り、クレジットカードを取り出して、僕とるみの買い物を精算した。
「肉と牛乳を早く冷蔵庫に入れたいから、先に僕のコンドミニアムへ行くよ」
「コンドーム?」
「コンドミニアム。日本で言うとマンション、みたいなところ」
買い物が入ったレジ袋を手に取り、出口へ向かう。
「その後車で君のホテルへ送るから、そこで買い物代金を精算してくれたらいい」
スーパーを出ると、小雨が降り始めていた。
ペトリコールが立ちこめる駐車場を、僕たちは車まで一緒にかけた。




