2005年6月 埼玉県K市(1)
「光は一秒間に地球を七周半するって、先生が言ってたよね?」
天体観測会が終わりひと月ほどたった頃、水木君から相談があると言われ、西校舎の二階の渡り廊下に呼び出された。
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
「そうだね……」
何の話だろうと考えを巡らせながら、ぼくは腕組みをする。
渡り廊下から見下ろす中庭では、つつじの枝葉が雨に打たれて雫を垂らしている。
「百光年というのは、一秒間に地球を七周半する光でも、百年かかる距離ということだよね?」
「うん、そういうことだと思う」
「宇宙ってどれだけ広いんだ、って思うよね」
「うん、想像できない……恐ろしくなるくらい、広い」
「仮に人類が光のスピードと同じくらい速く飛べる宇宙船を作っても、オリオン座のリゲルまで片道八百六十年かかるんだ。それは平安時代に地球を出発して、令和になってやっと到着できる長い旅。しかもそれさえ、宇宙のスケールで考えたら髪の毛の太さほどの距離だろうね」
「いや、髪の毛よりもっと小さな、ウィルスの大きさほどの微細な距離だと思う」
ぼくは親指と人差し指の隙間で、ウィルスの大きさを示そうとしたがやめた。部活へ向かう三年の女子たちが、ぼくたちを遠目で見てヒソヒソ話しながら通り過ぎる。校内放送が、美化委員会にまだ来ていない数名の名前を読み上げ、すぐに東校舎三階の生徒会室に来るように言っている。
「しかしおれは昨夜、ひらめいた。それは宇宙が途方もなく広いのではなく、もしかしたら光のスピードが途方もなく遅いのかもしれない。あるいは、この宇宙では時間の進み方が割に合わないほど早いのかもしれないって」
水木君はぼくの反応を見ながら続ける。
「もし時間の進み方が今より百倍遅かったら、光の速度は十分早くなり、宇宙空間は今よりずっと狭くなるだろう。おれは昨夜そう思ったんだ」
「うん、それは何となくわかる……って言うか、それってノーベル賞を取れるくらいすごい発見なんじゃない?」
「へへへ、漫画家になれるかな?」水木君は鼻の頭をこすりながら得意そうに笑う。
「もし時間の進み方が今より百倍遅かったら、宇宙の大きさは理論的には百分の一に縮まるだろう。つまり宇宙という「空間」が小さくなるには「時間」の進み方が遅くなればいいわけだ。空間と時間はそのように関わっている面があるということに気づいたんだ。でもその視点から冷静になって考えると、実際の光のスピードはあまりにも遅い。遅すぎる。そうは思わないか? この宇宙空間には光より速い物資は存在しないんだ。と言うことは、この宇宙の物語はすでに破綻しているのかもしれない」
野球部の男子たちが「水木、水木」と冷やかすような声をあげて、騒々しく笑いなが走り去る。
「破綻している?」
「この宇宙では、時間と空間の関係が極端にアンバランスということだ。そして不自然な状態は修正される」
「いつかそのアンバランスが解消される時が来ると言うの?」
「うん、プレートの歪みが解消されるとき地震が起きるように、宇宙の破綻が現実となっておれたちの目の前に現れる時が来ると思う。それは光の速度が今より百倍早くなるか、時間の進み方が百分の一に遅くなるか……」
「あるいは宇宙自体が百分の一に縮小するか——」
「その三つのうちのどれかの方法で修正される」
「そうすると、ぼくたちはどうなってしまうんだろう?」
「おれたちの存在は、消滅するかもしれない。痛いとか辛いとか、感覚的に認識できる消滅ならまだましだ。それは、何の感覚も認識も感情もともわない消滅になるかもしれない」
水木君はそこで大きく深呼吸をした。
渡り廊下を吹き抜ける風に乗った雨粒が、制服の足元を濡らす。ぼくたちの住む街はすでに梅雨入りしていて、湿り気を帯びた重い空気が世界を包み込んでいた。
「そうなる前におれは決めたんだ」
「何を?」
「おれは決めた」
「だから何を?」
「おれは津々美つづみさんが好きだ。そしてそのことを告白する」
水木君はまっすぐぼくの瞳を見た。
ぼくは水木君のまっすぐな瞳から目をそらした。水木君はニヤッと笑った。
「君が電話をしてくれたら助かる」
水木君はゆっくり頭を下げ、静かに頼み込んだ。
「君が津々美さんに、おれの気持ちを伝えてくれないか?」
好きな人に気持ちを告白するのを、他人に頼むということはなんとなく理解できる。しかし、それ以前に、好きだと言う気持ちをその相手に告白するということが、ぼくには理解できなかった。「君の小腸には百兆匹の細菌が住んでいる」と言われる方が、はるかに理解しやすいと思った
でもぼくは、その申し出を引き受けることにした。心のどこかで、ことがうまくいけばぼくにも津々美さんと話す機会ができるかもしれないと期待していた。
決行日は、職員会議で早帰りとなる次の水曜日に決まった。
その日も朝から雨だった。静かに地上に舞い降りる霧のような雨が、ぼくたちの家や学校を濡らしていた。ぼくは赤い傘をさして待ち合わせ場所の駅前の書店へ向かった。駅に続く歩道には、紫陽花がしっとりと咲いていた。緑の葉の水滴の上をカタツムリがはっている。
駅前の書店の入り口で待っていた水木君は、こんなに雨が降って街じゅうが湿っているのに、過去千年以上雨が降っていない乾燥したナスカ平原で発掘されたミイラのように、カラカラに乾いた顔をしていた。
今日の結果にはおそらく「引き分け」はない。電話をかけた数分後には、水木君は天国か地獄のどちらかにいることになる。
ぼくたちは駅前に一台だけある電話ボックスに二人で入り、津々美さんの自宅に電話をかけた。五、六回呼び出し音が鳴ったあと、大人の女性が電話に出た。
「津々美さんと同じ学校の者ですが……れいわさんはいますか?」
「ああ、ちょっと待ってね」
水木くんは息を殺し緊張した顔でぼくを見る。今にも泣き出しそうな瞳。電話の向こうに足音が近づてきた。
「もしもし」
津々美さんが受話器を取る。
これがもし自分の気持ちを告白する場面だったら、とてもこの重圧に耐えられなかっただろう。電話ボックスに降りそそぐ雨粒となって、道路脇の排水溝に姿を消してしまったに違いない。
「もしもし」
ぼくはゆっくり息を吸った。
「もしもし」
津々美さんがもう一度応える。
その声は耳元に熱い吐息をかけて、ぼくの気持ちを絡め取る甘い響きを含んでいた。これから華やかな舞踏会が幕を開ける、小気味いい緊張と期待が入り混じったファンファーレのような響き。
「あの……」
ぼくは言葉に詰まった。
「何……」
津々美さんは、続きを促して息を止める。
受話器を通じて心臓の鼓動が伝わってしまいそうな沈黙だった。街路樹に溜まっていた雨粒がまとめて落ちてきて、電話ボックスの屋根をバラバラと叩く。
その時、決壊した堤防から濁流が溢れ出すように、ぼくの心に制御できないほど津々美さんが恋しい気持ちが広がった。
今すぐ雨の中に飛び出して、津々美さんの家まで走り出したい衝動に駆られた。津々美さんの顔を見たい。その扉を叩き、傘を差し出し、六月の雨の街を一緒に歩きたい。
気がつくと、ぼくは津々美さんが好きだと告白していた。
耳がツーンと鳴って、全ての音が世界から消滅する。道路を行き交う自動車が、幻燈のようなコミカルな動き方に変わる。雨のカーテンが街の景色を霧消し、新聞を配る路地が見えなくなる。
「わたしもあなたがすき」
再び音が世界に戻ってきたとき、ファンファーレは華やかに響き渡り、真紅の薔薇の花束を受け取ったプリンセスが、にっこり微笑んでいた。梅雨空の向こうに、いくつもの夏の物語が待っているように思えた。
電話を切ると、水木君は血の気の失せた表情でぼくの目を見つめ、力なく笑った。
「なんだ、そういうことか……」
翌日の木曜も、その翌日の金曜も、一日中雨だった。
雨が四日続いた土曜の朝、水木くんは音楽室で首を吊った。




