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2020年2月13日 フロリダ(1)

 七週半走ったら五キロになる計算だ。

 午前六時。

 ベッドで横になっていても眠れないので、部屋を出て朝の空気で頭を冷やしながらジョギングすることにした。 

 街灯とロイヤルパームが縁取る遊歩道が、湖の外周に沿って周回している。昨夜の雨で路面はまだ濡れていて、所々大きな水溜りが出来ていた。水たまりを避けるため不規則なステップを踏みながら、僕は自分の脳がハッキングされている可能性を疑ってみた。しかし、ハッキングされているかもしれない脳で脳のハッキングを検証することは、アイマスクと耳栓をつけてジョギングするより難しく思われた。


 るみはどうして何も言わず出ていったんだろう.....


 どこからが夢でどこまでが現実だったのか? あるいはどこまでが現実でどこからが夢だったのか? 脳の中に保管されている記憶は、さまざまな情報と比較照合され「認識」というフィルターでふるいにかけられた「記憶」だ。「現実」と認識された出来事が「現実の出来事」として脳に記憶され、「夢」と認識された出来事は「夢の中での出来事」として脳に記憶される。どこかでその認識作業に狂いが生じ、現実ではないものを現実だと認識してしまったら、あるいは現実を夢の出来事として認識してしまったら、脳に蓄積される記憶は現実から乖離したものになる。

 東の地平線が赤く染まったら、空から星が消え、朝霧に煙るフラミンゴ・レイクの全体像が姿を現した。明るい日の下で実物を見るのは初めてだ。それは「湖」というより「池」と呼ぶべきものではないか思った。

 僕は気持ちを切り替えるためるみのことは一旦忘れて、湖と池の違いついて思いを巡らせてみた。そして鹿児島県に「池田湖」という湖があることを思い出した。湖なのに池と言う名前が付いている不思議な湖だ。あれは誰かが名前をつけるとき「そなたはどちらかと言えば池でござる」という意味で、名前の頭に「池」をつけたのだろうか? 

 驚くべきことに、鳥取県には「湖山池」という、「池田湖」より面積の広い「池」がある。鳥取県には、人口が日本で一番少ない県、スターバックスコーヒーが最後までできなかった県、コミック漫画の主人公の名前が付けられた空港が二つもある県、全国高校野球選手権大会の第一回大会に出場した高校がある県、などいくらでも特色があるのに、湖より大きな池がある県という特色をそこに加えたかったのだろうか。

 湿り気を帯びた雨上がりの朝の風を頰で受けながら、僕は無人の湖畔を走った。空に顔を出したばかりの朝日が湖面に反射し、ゆらめく光のしぶきとなって空中を漂う。

 フロリダの朝は急に明るくなる。夜露が滴るヤシの並木から、フロリダカケスの鳴き声がシャワーのように降ってくる。明るくなった湖沿いの遊歩道を、向こうから走ってくる人影が見えた。近づくとその人影は女性だった。若い女性のようだ。るみかと思ったが、そうではなかった。

 すれ違うとき目があったら声をかけようとしたが、その女性はサングラスをかけていて、僕の顔も見ずに走り去った。ナイキのランニングシューズを履いていた。


 湖畔七周半のジョギングを終えてスマホのランニングアプリを確認したら、走行距離は五・一キロだった。

 部屋に戻り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出しグラスに注ぐ。それを二杯飲んでから、ブルートゥース対応ワイヤレススピーカーの電源を入れ、スマホから電波を飛ばして旅行前に作ったプレイリスト「フロリダ2020」を流した。部屋中にジョナス・ブラザーズの「サッカー」が軽快に鳴り響く。

 僕はリズムに合わせて上半身を小刻みに動かしながら、アンダーアーマーのジョギングシューズの紐を解き、シャツもブリーフも脱いでシャワーを浴びた。髪を洗い水を切ってリンスをなじませる。その間に体を洗い最後にリンスと一緒にボディシャンプーの泡をシャワーで流した。

 シャワーから出たら雪のように真っ白なバスローブを羽織り、パウダールームの大きな鏡の前で、サンダルウッドの天然エッセンシャルオイルが配合された保湿クリームと乳液を顔に塗る。

 タオルで髪を拭きながらキッチンへ行き、冷蔵庫からベイリーフとセロリとキャベツとマッシュルームを取り出し、ビッグサイズのサラダを作ってボウルに入れる。そこに岩塩と胡椒とエキストラヴァージンオリーブオイルをかけ、ボウルの中でかき回した。それを大皿に盛って、その上にドライトマトと、ツナをトッピングする。さらにその上にアーモンドスライスと、粉状のパルミジャーノ・レッジャーノをたっぷりふりかけ、バルコニーのテーブルで、池のような湖を見下ろしながら食べた。

 昨夜、このバルコニーでるみとワイングラスを持って、雨の夜景を眺めた。フラミンゴがいるわけではないのにフラミンゴレイクと言う。湖には、フラミンゴの代りに白鳥の型のボートが浮かんでいる。湖沿いの遊歩道を散歩している人の姿もあった。ヤシの木々が緑の芝生にくっきりと影を落としている。

 サラダを食べ終わったら、キッチンに行って豆を挽いたコーヒーを入れ、シナモンロールとドーナッツを一個ずつ皿に乗せて、バルコニーのテーブルに戻って食べた。

 空には「これこそが青です」というテレビコマーシャルのような爽快な青空が広がり、ユキコサギの群れが横切った。昨夜の雨が嘘のような晴天だ。

 その間にも「フロリダ2020」はプレイリストの順番に忠実に曲を再現し、ショーン・メンデス・アンド・カミラ・カベロの「セニョリータ」を流す。月明かりのマイアミビーチで、男と女が汗を滴らせながら踊る歌だが、朝のみずみずしい光の中で聴くと別の曲のように聞こえる。

 ダイニングチェアーからリクライニングチェアーに移動し、深く体を沈める。池のような湖と、その周囲を取り囲むロイヤルパームの並木と、七周半走ったら五・一キロになるフラミンゴレイクの全望を見下ろしながら、スマホアプリでティックトックを開いた。

 軽快な音楽に乗って、男の子や女の子が華麗なダンスを次々と披露する。スピーカーからテックトックの画面に合わせ、ビートの効いたダンスミュージュックがポッポコーンのように飛び出してくる。

 非常階段の手すりから手すりへ飛ぶように移動する、パルクールのパフォーマーや、ギャロップステップで、三人抜きレイアップシュートを決めるバスケのスーパープレイを眺めた後、ティックトックを終了し、プレイリストでクラシック音楽を選ぶ。少し考えてバッハの「コーヒーカンタータ」をタップする。コヒーカンタータを聴きながら、スマホアプリの「ジャッジ」を開いて日本の最新ニュースをチェックした。

「新型肺炎リゲルウィルス感染者数が日本国内で増加」

 このニュースに対する閲覧者の「ジャッジ」は、「非常に心配」が三十四パーセント、「心配」が五十五パーセント、だった。九割近い人が感染拡大を「心配」あるいは「非常に心配」しているようだ。僕は「どちらとも言えない」にジャッジ投票をした。

 一月に入って日本国内で最初の感染者が確認された新型肺炎ウィルスは、「リゲル」と名付けられた。どうして新型ウィルスの名前が「リゲル」になったのか。

 調べてわかったのは、次のようなことだった。

 ウィルスやそのウィルスによる感染症の正式名称は、アルファベットと数字が並ぶ多くの人にとって馴染みにくいものだ。だからほっておいたら誰かが勝手に「馴染みやすい名前」をつけてしまうかもしれない。その名前がスパイスの効いたものだったら、ウィルスの流行とともにネットに乗って、あっという間に世界中に拡散する可能性がある。昨年暮れにロシアが実践配備した、ハイパーソニックミサイル「アバンガルド」よりもきっと早く。

 もしそのスパイスの効いたウィルスの名前が、「プー◯ンウィルス」とか「金〇〇ウィルス」だったら、どこかの国の都市がミサイルで消滅してしまうかもしれない。

 そのため「スパイスの効いた馴染みやすい名前」で誰かが呼び始める前に、「スパイスの効いてない馴染みやすい名前」をつけなければならない。それを考えるのが、国際ウィルス分類委員会だ。

 大きな声がしたので顔を上げて見ると、男が白鳥ボートから湖に飛び込んで水しぶきを立ててはしゃいでいた。この湖にはワニがいなければいいのだが、と少し心配した。

 今回の新型ウィルスは、顕微鏡で拡大すると表面のスパイクタンパクが、オリオン座の三つ星のように見えることから、「オリオン・ウィルス」という名前に決まりかけたらしい。ところが「オリオン」は、すでに世界中で色々なものの名前に使われている。レストランや映画館やノンアルコールビールやドラマの主題歌や戦隊ヒーローの必殺技の名前などに。

 風評被害を考慮すると、浸透している名称をウィルスの名前にすることはできない。かと言って全く関連性のない名前だと人々からそっぽを向かれ、スパイスの効いた名称が拡散されていく。こうして苦肉の策として選ばれたのが、「リゲル」だったと言うことらしい。

 バッハのコーヒーカンタータが第四曲に入った。若い娘が、千のキスよりコーヒーが欲しい、コーヒーなしじゃやっていけない、私をなんとかしたいならコーヒーをくれるだけで十分よ、と歌っている。なかなかスパイスの効いた歌詞だ。

 リゲルはオリオン座を構成する一等星で、全天でも五番目に明るい星だ。オリオン座にはもう一つベデルギウスという一等星があるが、この星は昨年の暮れ辺りから様子がおかしい。日に日に暗くなっていき、とうとう今年に入り一月五日には、星の明るさランキングで二十一位まで落ちてしまったのだ。

 星の専門家の推測では、この変化はベデルギウスが数年以内に超新星爆発を起こす前触れかもしれないと言う。超新星爆発が起きると、明るさだけでなく、地球に降り注ぐ宇宙線や重力や素粒子にも変化が現れる。それは自然現象や、人々の思考や行動にも、少なからず影響を及ぼすと言う。ベデルギウスが爆発すると満月ほどの明るさで輝き、数ヶ月間夜空を照らすらしい。それはどんな種類の夜空なんだろう?

 コーヒーカンタータが第五曲に入った。父親が若い娘に、コーヒーを諦めなければスカートを買ってやらない、と歌っている。バッハは確か、十一男九女と二十人の子宝に恵まれた。子どもたちの名前を考えるのが大変だっただろうなと想像する。

 ウィルスの名前を考える仕事というのは、モチベーションを保ちにくい仕事だと思う。少なくとも子どもの名前を考えるより。

 仮に脳が脂汗を書くほど懸命に考えて素晴らしい名前を思いついても、幸い? そのウィルスが世界に広がらなければ、名前も広まらない。せっかく考えた苦労も水の泡だ。逆にパンデミックになり、世界中でテレビのアナウンサーやコメンテーターがリゲルウィルスの名前を毎日口にしても、あるいはツイッターで何万回拡散されても、一回あたりの使用料が発案者の懐に入ることはない。どっちに転んでも報われない仕事だ。

 僕は二杯目のコーヒーを飲みながら、もう一度スマホでジャッジを開き、トップ三位のニュースを眺めた。


 一位:新型肺炎リゲルウィルスの感染者が増加

 二位:ベデルギウスの光度が低下

 三位:オリオン教団の元信者が放火


 これは偶然だろうか? それとも悪い冗談だろうか?

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