第五話 妻木家との交流
妻木家との縁ができてから、明智家と妻木家の間を行き来する機会が増えた。
表向きは、領地や街道についての話し合い。
美濃の国衆同士、互いの家を支えるための交流でもある。
そして俺は、そのたびに妻木家を訪れることになった。
理由は分かっている。
煕子に会いたいからだ。
だが、それを自分から認めるのは、まだ少し抵抗があった。
*
「十兵衛様、お待ちしておりました」
妻木家の門前で、煕子が出迎えてくれた。
「わざわざ出迎えなくてもよかったのに」
「父から、客人を丁重に迎えるよう申し付けられております」
「そうか」
煕子は微笑む。
その笑顔を見るたび、俺は現代の交差点を思い出す。
赤信号。
迫るトラック。
そして、俺が最後に見た彼女の顔。
今、目の前にいる。
それだけで、不思議な気持ちになった。
「今日は何のご用件でしょうか?」
「光安叔父上から書状を預かってきました。」
「まあ。それでは父のところへ」
「かたじけない」
二人並んで屋敷へ向かう。
しばらく歩いたところで、煕子が口を開いた。
「十兵衛様は、よく妻木家へいらっしゃいますね」
「そうですか?」
「はい」
少し笑う。
「以前よりも、ずいぶん頻繁になった気がします」
図星だった。
「……妻木家は明智家にとって大切な家ですから」
「そういうことにしておきます」
「ハハッ」
煕子が小さく笑った。
その笑い方も、現代と同じだった。
俺は思わず彼女を見つめる。
「……?」
「いや」
慌てて視線を逸らした。
「何でもない」
*
昼過ぎ。
妻木家との話し合いが終わった。
帰ろうとした俺を、煕子が呼び止めた。
「十兵衛様」
「何でしょう?」
「少し、お時間をいただけますか?」
「構いませんが、」
案内されたのは、庭だった。
池のそばに小さな東屋がある。
二人で腰を下ろす。
「今日は、どうされました?」
「少し聞いていただきたいことがあります」
「何でも言ってくだされ」
煕子はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「十兵衛様は……現世という言葉をご存じですか?」
俺の心臓が跳ねた。
「……現世?」
「はい」
煕子は池を見つめている。
「妙な夢を見るのです」
「夢?」
「はい」
彼女は静かに語り始めた。
「見たことのない建物。
見たことのない道。
馬ではなく、鉄でできた大きな乗り物が走る道。
夜でも明るい街。
手のひらほどの板を使って、人と話す……」
俺は黙って聞いていた。
それは夢ではない。
現代だ。
「そして、時々思い出すのです」
煕子は胸元に手を当てた。
「私は、この時代の人間ではないのだと」
俺は何も言えなかった。
やはり。
彼女も現代の記憶を持っている。
「……怖くはありませんか?」
ようやく尋ねる。
「最初は怖かったです」
煕子は頷いた。
「ですが、不思議なことに、今ではそれほどでもありません」
「なぜです?」
「ここで生きている自分も、確かに私だからです」
その言葉に、俺は少し驚いた。
俺とは違う。
俺はまだ、現代の自分と明智十兵衛の間で揺れている。
だが彼女は、すでにこの時代を受け入れ始めている。
「……現代で、何か大切な人はいたのか?」
聞いてから、少し後悔した。
煕子はしばらく黙っていた。
「大切な人、というほどではありません」
そして、少し寂しそうに笑った。
「ただ、一人だけ忘れられない人がいます」
「……どなたです?」
「私の命を救ってくれた人です」
胸を突かれた。
やはり、覚えている。
あの日のことを。
「私は道路を渡っていました」
煕子は遠くを見る。
「すると、大きな車が……」
言葉が止まる。
その表情が苦しそうに歪んだ。
「一人の男性が、私を突き飛ばしたのです」
俺は拳を握った。
「その人は……」
「亡くなりました」
静かな声だった。
「私は助かりました。でも、その方は助からなかった」
煕子は俯く。
「名前も知りません」
「……そうですか」
それ以上、言葉が出なかった。
「だから、ずっと考えてしまうのです」
「何を?」
「なぜ、あの人は私を助けたのか」
煕子は顔を上げた。
「自分の命を犠牲にしてまで、見ず知らずの私を」
俺は彼女を見つめた。
本当は言いたかった。
――俺だ。
あの時の男は俺だ。
だが、言えなかった。
今ここで真実を告げたら、彼女の人生は大きく変わる。
それに。
俺自身、まだ整理できていない。
「……きっと」
俺はゆっくり口を開いた。
「その人は、あなたを助けたかったんでしょう」
「え?」
「理由なんて、後から考えればいくらでもあります。でも、その瞬間に助けたいと思った。ただ、それだけじゃなのでしょうかい?」
煕子は黙って俺を見る。
「……そうかもしれませんね」
小さく笑う。
「私も、そう思いたいです」
俺は視線を逸らした。
今はまだ、言わない。
彼女が自分から知る日が来るのか。
それとも、俺が告げる日が来るのか。
分からない。
*
帰る頃には、日が傾いていた。
「本日はありがとうございました」
門の前で、煕子が頭を下げる。
「こちらこそ」
「また、お越しください」
「えぇ。」
馬に乗る。
少し進んだところで、俺は振り返った。
煕子はまだ門の前に立っている。
俺と目が合う。
彼女が微笑む。
俺も小さく笑った。
そして前を向く。
今はまだ、彼女は知らない。
自分の命を救った男が、目の前にいることを。
そして俺もまた、彼女が現代から来たことを知っただけだ。
二人とも現代の記憶を持っている。
ただ一つだけ、大きな秘密がある。
煕子は知らない。
あの日、彼女を救った男と――。
今、自分が見送った明智十兵衛が、同じ人間だということを。
その秘密を胸に抱えたまま、俺は明智城へ向かった。




