第三十五話 主家の刃
朝倉との情報戦が続いていた頃。
美濃では、別の火種が燻っていた。
――土岐氏。
かつて美濃を治めていた名門。
斎藤利政が実権を握った今も、土岐氏を慕う者たちは少なくない。
そして、その者たちにとって利政は――。
主家から実権を奪った男だった。
*
「殿!」
稲葉山城。
慌ただしい足音とともに、家臣が駆け込んできた。
「何事だ」
「利政様が襲われました!」
「何だと?」
俺は思わず立ち上がった。
「ご無事なのか?」
「はい。幸い、お怪我はありません」
「詳しく話せ」
「土岐家に近しい者が、利政様を狙ったようです」
俺は息を呑んだ。
「土岐家が……?」
「正確には、土岐家を擁立しようとする者たちです」
なるほど。
利政を排除し、土岐氏を再び美濃の中心へ戻そうとしている。
*
俺は急いで稲葉山城へ向かった。
奥の部屋。
そこには利政が座っていた。
「十兵衛か」
「ご無事で何よりでございます」
「この程度で死ぬほど、儂は柔ではない」
利政は笑った。
だが、いつもの余裕は薄い。
「何があったのです?」
「土岐の者が儂を殺そうとした」
「……」
「儂が土岐を追い落としたことを、いまだに恨んでいる者がおるらしい」
利政は苦笑した。
「昔の主家というのは、面倒なものだ」
俺は黙っていた。
歴史を知る俺には、この事件の意味が分かる。
利政の敵は、織田だけではない。
朝倉でもない。
美濃そのものの中にいる。
「殿」
「何だ?」
「今後は、身辺警護をお増やしになられては?」
「心配してくれるのか?」
「当然です」
俺は真剣に答えた。
「殿を失えば、美濃は大きく揺らぎます」
利政は俺を見つめた。
そして――。
「お前は、本当に面白い男だ」
「?」
「儂の命だけではなく、美濃の先まで心配しておる」
俺は答えなかった。
*
その夜。
俺は今回の襲撃について考えていた。
土岐氏。
高政。
朝倉。
織田。
美濃の周囲には、敵が多い。
しかも――。
歴史では、ここから道三と高政の対立が深刻になっていく。
「……何としても、避けなければ」
俺は呟いた。
だが、そのためには高政との関係を改善しなければならない。
そして土岐氏を利用しようとする者たちも、放置できない。
俺は地図を広げた。
「外からの敵だけを見ていては駄目だ」
戦国の世では――。
最も恐ろしい敵は、味方の顔をして近づいてくる。
そう思った瞬間。
廊下から足音が聞こえた。
「十兵衛様」
「何だ?」
「高政様がお見えです」
俺は顔を上げた。
――高政。
今度は、何を話しに来たのか。
美濃の運命を左右する男との対話が、始まろうとしていた。




