第三十ニ話 朝倉の間者
不審な商人の噂が立ってから、十日ほどが過ぎた。
俺は商人をすぐには捕らえなかった。
むしろ、こちらから情報を流した。
明智家の兵が増えている。
鉄砲の調練を始めた。
近く、織田との戦に備えて兵を集める。
どれも、完全な嘘ではない。
だが――。
意図的に流させせた情報だ。
「十兵衛様」
家臣が駆け込んできた。
「例の商人ですが、本日も村の者に話を聞いていたようです」
「何を?」
「鉄砲についてです」
「……やはりな」
俺は立ち上がった。
「今夜、動く」
*
夜。
月明かりの下、俺は数人の家臣とともに商人が泊まっている宿を見張っていた。
しばらくすると、男が宿から出てきた。
商売道具を持っていない。
向かう先も、市場ではない。
「十兵衛様」
「追うぞ」
男は明智荘の外れへ向かった。
周囲を警戒しながら、何度も振り返る。
そして、人目のない場所まで来ると――。
懐から小さな紙を取り出した。
「今だ」
俺たちは一斉に飛び出した。
「動くな!」
「!」
男が逃げようとする。
だが、すでに周囲を囲んでいる。
「そこまでだ」
俺は男の前へ立った。
「……明智様」
男の顔から商人らしい笑みが消えた。
「ようやく捕まえたな」
「いや」
俺は答えた。
「こちらが捕まえたんだ」
男は懐へ手を入れようとする。
「やめておけ」
俺は刀に手を添えた。
「その手を動かせば斬る」
男はゆっくり手を上げた。
家臣が男を取り押さえる。
「連れていけ」
*
屋敷の一室。
男は縄を掛けられ、俺の前に座っていた。
「さて」
俺は男を見る。
「何者だ?」
「ただの商人です」
「まだそれを言うか」
「本当に――」
「ならば聞こう」
俺は机の上に紙を置いた。
「これは何だ?」
先ほど男が持っていた書状。
男の顔が僅かに強張った。
「商売の帳簿です」
「では、読んでみろ」
「……」
「読めないのか?」
沈黙。
俺はため息をついた。
「商人なら、帳簿くらい読めるだろう」
「……」
「それとも、これは商人には必要のない書状なのか?」
男は黙ったままだ。
俺は続ける。
「明智家の兵数」
「……」
「鉄砲の数」
「……」
「城の警備」
「……」
「俺がいつ戻るか」
男の目が動いた。
それを見逃さない。
「やはりな」
俺は立ち上がった。
「お前は商人ではない」
男は目を伏せた。
「間者だ」
*
しばらくの沈黙。
やがて男が口を開いた。
「……そこまで分かっているなら、これ以上聞く必要もないでしょう」
「いや」
俺は男の前に座り直す。
「俺は誰に雇われたのかを聞いている」
「……」
「織田か?」
男は首を振った。
「今川か?」
また首を振る。
「では、誰だ?」
男はしばらく黙っていた。
そして――。
「朝倉左衛門督様です」
「……朝倉様が何故?」
予想していなかった名前だった。
越前の朝倉家。
「朝倉家の命を受けているのか?」
「そうだ」
「何のために?」
「美濃の動きを探るためです」
「なぜ明智荘を?」
男は少し迷った。
「明智家が、斎藤家の中で何をしているのかを知るためだ」
「それだけか?」
「……」
俺は男を見つめる。
男は観念したように続けた。
「斎藤家が織田と戦を続けるのか。それとも、別の国と手を結ぶのか」
「朝倉が、それを気にしている?」
「越前にとって、美濃の動きは重要なのです」
なるほど。
越前と美濃。
隣接しているわけではない。
だが、近隣の勢力図が変われば朝倉家にも影響する。
「……分かった」
俺は立ち上がった。
「こいつを牢へ」
「はっ」
男が連れていかれる。
俺は一人になった部屋で、腕を組んだ。
「朝倉か……」
織田。
今川。
そして朝倉。
美濃を取り巻く国々が、少しずつ動き始めている。
だが、俺には一つ気になることがあった。
――なぜ、今なのか。
織田との婚姻が決まった直後。
大垣城を奪い返し。
そして、明智荘へ朝倉の間者が入り込んだ。
偶然とは思えない。
「……美濃の情勢を探っているだけではないな」
俺は呟いた。
この男が知らない、もっと大きな思惑がある。
そんな気がしてならなかった。




