第十五話 煕子との婚約
稲葉山城から戻った、その日の夕刻。
明智城へ戻ると、家臣が一通の文を差し出してきた。
「十兵衛様。妻木家よりございます」
「妻木家……?」
「はい。煕子様からとのことです」
その名を聞いた瞬間、胸がわずかに高鳴った。
俺は文を受け取り、封を切る。
そこには、端正な文字が並んでいた。
――十兵衛様。
――お帰りになられたと聞き、安堵いたしました。
――堺と京への旅、さぞお疲れのことでしょう。
――もしお時間が許すのであれば、一度お顔を見せていただければと思います。
――お待ちしております。
短い文だった。
だが、最後の一文を何度も読み返してしまう。
「……煕子さん」
俺が現代で助けた女性。
トラックから庇った、あの女性。
俺と同じように、この時代へ転移してきた。
そして今は、妻木煕子として生きている。
彼女には現代の記憶がある。
だが――。
俺が、あの時彼女を助けた男だとは知らない。
俺自身も、まだ彼女に真実を話すつもりはなかった。
「……会いに行くか」
*
翌日。
俺は妻木家を訪れた。
通された座敷には、妻木家の当主と家臣たちが並んでいた。
「明智十兵衛殿。よくお越しくだされた」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
挨拶を交わす。
しばらく世間話をした後。
妻木家当主が口を開いた。
「実は、今日は一つお願いがございます」
「何でしょう?」
「十兵衛殿と、娘・煕子の縁についてです」
やはり。
俺は静かに息を吐いた。
「はい」
「以前より、両家の間で話が出ておりました」
「承知しております」
「この度の堺・京への旅を終えられたことで、明智家の今後も見えてきたのではないかと思っております」
俺は黙って聞く。
「そこで――」
妻木家当主が頭を下げた。
「正式に、煕子との婚約をお願いできないでしょうか」
座敷が静まり返る。
俺は一瞬、目を伏せた。
歴史上、明智光秀と妻木煕子は夫婦になる。
それを俺は知っている。
だが、今ここにいる煕子は、単なる歴史上の人物ではない。
現代から来た、一人の女性だ。
そして俺は――。
彼女を一度、命懸けで助けた。
「……ありがたいお話です」
俺は答えた。
「私としても、異存はありません」
妻木家当主の表情が和らぐ。
「おお……」
「ただ」
「何か?」
「煕子殿本人の意思を確認したいと思います」
妻木家当主が頷いた。
「もちろんです」
「家同士の都合だけで決めることではありません」
「その通りです」
*
その後。
庭へ出ると、煕子が待っていた。
「十兵衛様」
「煕子殿」
向かい合う。
以前会った時よりも、少しだけ距離が近くなった気がした。
「堺と京はいかがでしたか?」
「色々と勉強になりました」
「鉄砲を買われたとか」
「はい」
「随分と先のことを考えておられるのですね」
俺は苦笑した。
「必要だと思ったので」
「……不思議な方ですね」
「そうでしょうか?」
「以前は、もっと無口な方だったように思います」
「旅をしたからでしょう」
「そうかもしれませんね」
煕子は微笑んだ。
その表情を見ていると、不思議な感覚になる。
現代で見た顔と重なる。
だが、彼女は俺を知らない。
少なくとも、俺があの時の男だとは思っていない。
「煕子殿」
「はい」
「先ほど、父様からお話を伺いました」
「……婚約のお話ですね」
「はい」
煕子は少し俯いた。
「私でよろしいのでしょうか」
「私は、そう思っています」
「本当に?」
「ええ」
煕子は黙った。
「十兵衛様は、私のことをあまりご存じないでしょう」
「そうかもしれません」
「それなのに……」
「これから知ればいいことです」
煕子が顔を上げる。
「これから?」
「夫婦になるのなら、なおさらです」
しばらく、彼女は俺を見ていた。
そして小さく微笑んだ。
「……はい」
その声は、静かだった。
「私も、異存はございません」
*
妻木家との話は、その日のうちにまとまった。
正式な婚約。
婚礼の日取りについては、これから両家で相談する。
俺は屋敷を出る前、もう一度だけ煕子を見た。
「煕子殿」
「はい?」
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそでございます」
彼女は微笑んだ。
「十兵衛様」
「何でしょう?」
「京や堺のお話を、また聞かせてください」
「ええ。いくらでも」
「楽しみにしております」
*
妻木家を離れ、帰路につく。
俺は一人、馬上で考えていた。
婚約が決まった。
歴史通りなら、これから俺と煕子は夫婦になる。
だが。
俺の知る歴史とは、すでに違っている。
俺は未来を知っている。
鉄砲を手に入れた。
京と堺に人脈を作った。
そして――。
妻木煕子と婚約した。
しかし、俺にはまだ言えない秘密がある。
彼女が現代で助けた女性だということ。
そして。
俺が、その時彼女を助けた男だということ。
「……いつか話す」
今ではない。
彼女自身が、この時代で生きる覚悟を決めた時。
その時に、すべてを話そう。
俺は前を向いた。
美濃の山々が夕日に染まっている。
これから先。
俺にはやるべきことが山ほどある。
鉄砲隊の育成。
お見の方の治療。
道三と義龍。
そして、信長との出会い。
歴史は、少しずつ動き始めている。
その中で。
俺は一人ではなくなった。
――妻木煕子。
これから俺の隣に立つことになる女性。
彼女と共に、俺はこの時代を生きていく。




