プロローグ 本能寺の変
天正十年六月二日。
夜明け前の京は、まだ眠っていた。
東の空がわずかに白み始めている。
だが、本能寺を取り囲む男たちにとって、朝はもう始まっていた。
明智の桔梗紋が、薄闇の中で揺れている。
無数の松明が、寺を赤く照らしていた。
馬の鼻息。
鎧の擦れる音。
押し殺された兵士たちの声。
そのすべてを聞きながら、明智十兵衛光秀は馬上から本能寺を見つめていた。
「……ここまで来たか」
呟きは、誰の耳にも届かなかった。
隣に控えていた斎藤利三が、静かに尋ねる。
「殿。ご命令を」
十兵衛は答えなかった。
視線の先。
あの寺の中に、織田信長がいる。
天下人。
自分が仕えた主君。
そして――。
十兵衛は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ、遠い日の記憶が蘇る。
現代の街。
青信号。
こちらへ向かって走ってくる大型トラック。
誰かを突き飛ばした感触。
そして、自分の身体を襲った衝撃。
――人を救うためなら、命くらい惜しくない。
あの日の自分は、そう思った。
だが。
戦国の世では、そんな綺麗事だけでは誰も救えない。
誰かを生かすためには、誰かに憎まれなければならないこともある。
誰かを守るためには、誰かを欺かなければならないこともある。
そして今夜。
十兵衛は、そのすべてを背負う。
「全軍、進め」
静かな声だった。
だが、その一言で戦場が動いた。
「敵は本能寺にあり!」
兵たちが一斉に駆け出す。
門が破られる。
怒号が響く。
鉄砲の音が京の夜を裂いた。
織田軍の兵たちが応戦する。
だが、数が違う。
明智軍は本能寺を完全に包囲していた。
十兵衛は馬を降りた。
燃え上がる本能寺を見上げる。
炎の向こうに、信長がいる。
そして十兵衛は知っていた。
この日が、後世に語り継がれることを。
明智十兵衛光秀。
主君・織田信長を討った謀反人。
天下を狙った逆臣。
日本史に刻まれる、あまりにも有名な裏切り。
だが――。
「……申し訳ございません、上様」
十兵衛は小さく頭を下げた。
「しばし、死んでいただきます」
炎が夜空を赤く染める。
やがて本能寺から、一人の男が姿を現した。
織田信長。
その顔には、恐怖も怒りもなかった。
ただ、いつものような鋭い眼差しがあった。
「十兵衛」
信長が呼ぶ。
十兵衛は一歩、前へ出た。
「はっ」
「首尾は?」
「滞りなく」
「そうか」
信長は、それだけ言った。
まるで今夜起こることを、すべて知っているかのように。
十兵衛の背後では、誰も真実を知らない。
斎藤利三も。
明智の兵たちも。
京の民も。
そして、この国の誰一人として。
知らない。
今夜ここで死ぬはずの男が――
「十兵衛」
「はい」
「後を頼む」
「……御意」
その言葉を最後に、二人は別れた。
十兵衛は振り返らなかった。
振り返れば、決意が揺らぐ気がした。
だから前だけを見る。
燃え落ちていく本能寺を。
そして、自分がこれから背負う未来を。
夜が明けた。
京の人々が目を覚ました頃には、すべてが終わっていた。
織田信長、討死。
織田信忠、討死。
明智十兵衛光秀、謀反。
それが、この日の「真実」となった。
やがて各地へ早馬が走る。
天下は揺れた。
織田家は動揺し、諸将はそれぞれの思惑で動き始める。
そして十兵衛自身もまた、歴史の表舞台へ引きずり出されていく。
誰も知らない。
信長が生きていることを。
信忠もまた、生きていることを。
そして――。
この日から日本を治めることになる男自身が、天下など望んでいなかったことを。
夜。
明智十兵衛は一人、書状を握っていた。
差出人は信長様からだった。
十兵衛は目を閉じた。
「……承知しております、上様」
書状を火にくべる。
炎が文字を飲み込んでいく。
これでいい。
これでなければならない。
織田信長は、今日死んだ。
歴史上は。
そして明智十兵衛は、この日から――。
日本中から憎まれることになる。
それでも。
十兵衛は歩き出した。
天下を欲したことなど、一度もない。
ただ、誰かを生かすために。
ただ、誰かを守るために。
そしていつの日か――。
不本意ながら。
この国すべてを背負うことになるとは。
この時の十兵衛は、まだ知らなかった。




