第9話 観に来てほしい
舞台の稽古が始まった頃には、まだずっと先のことに思えていた本番も、気づけば少しずつ近づいていた。
なるもようやく稽古場の雰囲気に慣れ、最初の頃のように毎日緊張しているわけではなくなった。それでも演出から新しい指示が入れば戸惑うし、共演者の芝居を見て、自分との差に落ち込む日もある。
そんなある日の稽古終わり、出演者たちが集められた。
舞台のスタッフから伝えられたのは、翌日に一般発売を控えたチケットについてだった。
公演の日程や販売方法についての説明が続いたあと、出演者それぞれに販売の目安となる枚数が伝えられていく。
いわゆるチケットノルマだった。
「今回もこのくらいかぁ」
「前よりちょっと多くない?」
周囲ではそんな会話が始まっている。
なるも自分には何枚と言われるのだろうと身構えていたが、スタッフから声をかけられた。
「なるさんは今回初舞台だから、特にノルマは考えなくて大丈夫ですよ」
「あ……はい」
思わずホッとした。
まだ舞台経験もなく、役者として自分のお客さんがいるわけでもない。そんな自分に何十枚も売ってくださいと言われても、どうすればいいのか分からなかっただろう。
それなのに、少しだけ複雑な気持ちも残った。
ノルマがないということは、自分にはそこまで期待されていないということなのだろうか。
もちろん、スタッフがそんな意味で言ったわけではないことくらい分かっている。
初舞台だから配慮してくれただけだ。
それでも周囲の共演者たちが「今回は何枚売れるかな」「前回来てくれた人に連絡してみよう」と話しているのを聞いていると、自分だけその輪の外にいるような気がした。
すると、近くにいた共演者がなるに声をかけた。
「なるちゃんは配信やってるんだよね?」
「はい」
「じゃあ結構来てくれるんじゃない? フォロワー何人くらいいるの?」
なるはスマホを開いて確認した。
「今……250人くらいです」
「おお、すごいじゃん」
そう言われると少し嬉しい。
配信を始めた頃は、フォロワーなんてほとんどいなかった。それが毎日配信を続けているうちに、いつの間にか250人ほどになっている。
なるは少し期待した。
250人いるのなら、そのうち10人くらいは観に来てくれるかもしれない。
そんなことを考えていると、舞台経験の長い別の共演者が会話に加わった。
「でも配信のフォロワーと、実際に劇場まで来てくれる人は別だよ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだよ。配信ならスマホ開けば見られるけど、舞台はチケット買って、予定空けて、劇場まで来なきゃいけないからね」
言われてみれば当たり前のことだった。
「まあ目安みたいなもんだけど、フォロワー100人いて実際に足を運んでくれるのは一人くらいって思っておいた方がいいかもね」
なるは頭の中で計算した。
「100人で一人……」
250人なら。
二人。
多く見ても、二人か三人。
「そんなに違うんだ……」
「配信と舞台じゃ、応援の仕方が全然違うからね」
共演者はそう言って笑った。
その言葉は、帰りの電車の中でもなるの頭に残っていた。
フォロワー250人。
数字だけを見ていた時には、たくさんの人が自分を知ってくれているように感じていた。
でも、その全員が毎日配信を見ているわけではない。
たまたま一度配信を見てフォローしてくれた人もいるだろうし、最近は来ていない人もいる。
それに舞台となれば、チケット代だけではない。交通費もかかるし、仕事や学校、家庭の都合だってある。
遠くに住んでいる人なら、観に行きたいと思っても簡単には来られない。
そう考えると、劇場まで足を運んでもらうということが、急にとても大きなことに思えてきた。
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翌日はチケットの一般発売日だった。
出演者にはそれぞれ専用の予約窓口が用意され、誰をきっかけにチケットを購入したのか分かるようになっていた。
なるも自分の予約状況を確認する。
表示されていた数字は、
一枚。
「……一枚」
思わず声に出した。
一枚。
もちろん、ゼロではない。
誰か一人が、自分をきっかけにチケットを予約してくれている。
それは嬉しい。
でも、配信では舞台出演が決まった時に「観に行く」「絶対行く」と言ってくれた人が何人もいた。
だから心のどこかで、もう少し予約が入るものだと思っていた。
なるはスマホを閉じた。
少しして、また開く。
一枚。
「変わってないか……」
自分でも何を期待しているのだろうと思って笑った。
発売されたばかりなのだから、これから増えるかもしれない。
それでも気になった。
どうすれば、もっと観に来てもらえるのだろう。
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その日の配信で、なるはいつものメンバーにチケットが発売されたことを報告した。
すぐに「おめでとう」「いよいよだね」と反応が返ってくる。
なるは少し迷ってから、正直に話した。
「実はね、私のところから予約してくれてる人、今一人なんだ」
コメント欄に「これからだよ」「発売されたばっかりじゃん」といった言葉が流れる。
「うん。それは分かってるんだけど……どうしたら観に来てもらえるのかなって」
配信を始めた頃なら、「みんな来て!」と何も考えず言っていたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
「もちろん来てほしいよ。でも、チケット代もかかるし、遠い人もいるし、仕事の人もいるでしょ。だから何回も『買って、買って』って言うのも違う気がするんだよね」
いつものメンバーから、いろいろな意見が返ってきた。
無理に来てもらう必要はないという人もいれば、そもそも舞台の日程や場所をもっと分かりやすく伝えた方がいいという人もいる。「行きたい人にも情報が届かなかったら意味ないよ」という意見を見て、なるは確かにと思った。
「宣伝することと、無理に買ってもらうことは違うってこと?」
『そういうこと』
なるは少し考えた。
これまで舞台の話はたくさんしてきた。
今日の稽古でこんなことがあった。演出にこんなことを言われた。共演者の芝居がすごかった。
けれど肝心の「どんな舞台なのか」「いつ、どこでやるのか」を、きちんと説明したことは意外と少なかった。
「じゃあ私、ちゃんと紹介してみようかな」
その日、なるは初めて自分の言葉で舞台のことを話した。
どんな作品なのか。
いつ公演があるのか。
劇場はどこにあるのか。
自分がどんな役を演じるのか。
もちろん物語の内容を全部話すことはできない。それでも、なるなりに一生懸命説明した。
最後に少し照れながら、カメラを見た。
「私にとって、初めての舞台です。大きな役じゃないけど、初めてもらった役だから……もし予定が合ったら、観に来てほしいです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「なんか急に真面目になっちゃった」
コメント欄に笑う反応が並んだ。
でも、なるはそれ以上「買って」とは言わなかった。
来られる人には来てほしい。
来られない人に無理をしてほしいわけではない。
その気持ちだけは、自分の中ではっきりしていた。
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それから、なるは少しずつ舞台の宣伝をするようになった。
SNSには公演日や劇場の場所、予約方法を分かりやすくまとめた。
配信でも毎回チケットの話をするのではなく、稽古で面白いことがあった時や舞台の話題になった時に、「興味あったら観に来てね」と伝える程度にした。
それでも予約状況は気になる。
二枚。
「増えた!」
翌日は変わらなかった。
その次の日。
三枚。
「三人になった」
一枚増えるだけで嬉しかった。
スマホの画面に表示されているのは、ただの数字だ。
でも、その数字の向こうには誰かがいる。
予定を確認して、チケット代を払って、劇場まで来ようと思ってくれた人がいる。
そう考えるようになってから、一枚増えることの重みが変わった。
そして本番が近づいてきたある日。
稽古から帰ったなるは、何となく予約状況を確認した。
「……え?」
数字を見て、一度画面を閉じた。
もう一度開く。
「五枚?」
更新してみる。
変わらない。
五枚。
なるは思わず笑った。
「五人も来てくれるんだ」
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その日の配信で、なるは嬉しそうに報告した。
「聞いて。チケットね、私のところから五枚予約入ってる!」
コメント欄から「おお!」という反応が返ってくる中、いつもの一人が冗談交じりに書いた。
『5枚かよwww』
「少なくないよ!」
なるはすぐに反論した。
「だって私、フォロワー250人くらいでしょ? 100人に一人くらいって聞いたから、二人来てくれたらいい方だと思ってたんだよ。それが五人だよ? 倍以上だからね!」
得意げに言うなるに、コメント欄から笑いが返ってくる。
けれど、なる自身は本当に嬉しかった。
250人というフォロワー数は、配信を続けてきた結果として大切な数字だ。
一人増えるたびに喜んできたし、250人もの人が一度でも自分を見つけてくれたことは、今でもすごいことだと思っている。
でも今は、不思議と五人という数字の方が大きく感じた。
「だって五人がさ、本当に劇場まで来てくれるんだよね」
なるがそう言うと、コメント欄が少しだけ静かになった。
「チケット買って、時間作って、電車とか乗ってさ。私の舞台を観に来てくれるんでしょ?」
そこまで言って、なる自身が急に緊張した顔になった。
「……待って。そう考えたら急に怖くなってきた」
『今さらかよ』
「だって失敗できないじゃん!」
『5人以外にも客いるからな』
「あ、そっか」
自分を目当てに来る人のことばかり考えていたが、舞台そのものを楽しみにしている観客も当然いる。
「余計緊張すること言わないでよ!」
いつものように笑いが起きた。
少しして、なるは画面を見ながら言った。
「でも、本当にありがとう。誰が予約してくれたのか、私には分からないんだけど」
もしかしたら、今コメントしている人かもしれない。
普段はコメントせずに見ている人かもしれない。
最近あまり配信に来ていない人かもしれない。
なるには分からない。
それでも、本番の日にはその五人が客席のどこかにいる。
そう思うだけで、少し心強かった。
「ちゃんと観に来てよかったって思ってもらえるように頑張るね」
『楽しみにしてる』
一つのコメントが流れた。
なるはそれを見て笑った。
「うん。楽しみにしてて」
配信を終えたあと、なるはもう一度予約画面を開いた。
五枚。
たった五枚と思う人もいるかもしれない。
でも、なるにはそうは思えなかった。
配信なら、スマホを開けば会える。
コメントを一つ送るだけでも話すことができる。
けれど舞台は違う。
時間を空けて、チケットを買って、劇場まで来てもらわなければ会えない。
だからこそ、その五という数字がとても大きく見えた。
フォロワー250人。
そして、自分をきっかけに劇場へ来てくれる五人。
どちらも、なるが配信を始めなければ生まれなかった数字だった。
舞台本番まで、あと少し。
なるは机の上に置いてあった台本を手に取った。
客席のどこに座るのかも、どんな人なのかも分からない。
それでも本番の日、あの客席のどこかに、自分を観に来てくれた人がいる。
そう思うと、台本を持つ手に少しだけ力が入った。
「よし」
今度は自分が返す番だ。
チケットを買ってくれたことへのお礼を言葉で返すのではなく、舞台の上で返したい。
観に来てよかった。
そう思ってもらえる芝居をしたい。
なるにとって初めての舞台は、もうすぐそこまで来ていた。




