第8話 答えは台本の中に
初めての舞台稽古が始まってから、なるの配信には新しい話題が一気に増えた。
「今日ね、初めて立ち稽古したの!」
配信を始めるなり、なるは待ってましたとばかりに話し始める。
台本を持ったまま動いてみたこと。自分では普通に歩いているつもりなのに、「そこはもう少しゆっくり」と演出から指示されたこと。共演者が台本をほとんど見ずに台詞を言っていて驚いたこと。
「あとね、舞台って立つ場所に印があるんだよ。私、今日それ見失って全然違うところに立っちゃった」
そんな話をすると、コメント欄には笑う反応が並ぶ。
『本番でやらなきゃ大丈夫』
「本番でやったら大事件でしょ!」
なる自身も笑っていた。
毎日のように初めてのことが起きる。
失敗しても、それさえ配信で話したくなるくらい楽しかった。
舞台に出演する。
まだ本番は先なのに、稽古場へ行くだけで少し俳優になれたような気がしていた。
ところが、そんな日々が続くうちに、なるの配信には少しずつ変化が現れ始めた。
「こんばんはぁ……」
『疲れてる?』
「分かる?」
『分かる』
「早いなぁ」
なるは笑ったものの、いつもの勢いはなかった。
稽古は日に日に本格的になっていた。台詞を覚えるだけではなく、立ち位置を確認し、相手の動きに合わせ、演出から言われたことを次の稽古までに修正する。覚えたと思ったところに新しい指示が入り、昨日できていたことが今日はできなくなることもあった。
何より、ずっと緊張していた。
初舞台のなるにとって、稽古場にいるだけでも気を張る。周囲の共演者が当たり前のようにこなしていることが、自分には一つひとつ考えなければできなかった。
家へ帰る頃には、身体だけではなく頭まで疲れ切っている。
それでも配信を休もうとは、なかなか思わなかった。
配信開始のボタンを押して、いつもの名前が並ぶと、少しだけ力が抜けた。
「ごめん、今日30分くらいでもいい?」
以前なら、もっと長く配信しなければと思っていたかもしれない。
けれどコメント欄には「もちろん」「むしろ早く寝な」「明日も稽古でしょ」といった言葉が並んだ。
「またお母さんたちがいる」
そう言って笑うと、「誰がお母さんだ」という返事が来る。
短い配信の日が、一日、二日と増えていった。
以前なら一時間以上話していた夜でも、三十分ほどで終わる。ひどく疲れた日は二十分くらいで、「今日はもう無理」と笑いながら配信を切ることもあった。
それでも、いつものメンバーは長くやってほしいとは言わなかった。
「今日もお疲れさま」「顔見られたからいいよ」「明日も頑張って」と送り出してくれる。
なるも、そんな短い時間を楽しみにするようになっていた。
稽古場では一日中緊張している。
でも夜になれば、いつものルームに戻ってこられる。
長く話せなくてもいい。
特別な話題がなくてもいい。
疲れて「今日はもう眠い」と言っても笑ってもらえる。
いつの間にか、そんな配信が当たり前になっていた。
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その日の稽古で、なるは一つの場面を何度もやり直していた。
相手役との会話の中で、なるが短い台詞を言う場面だった。
長い台詞ではない。
難しい言葉があるわけでもない。
それなのに、何度やっても演出から止められる。
「なる、ちょっと違うな」
「はい」
もう一度やる。
また止まる。
「うーん……違う」
三度目に止められたところで、なるは思い切って尋ねた。
「あの、どこが違いますか?」
演出は台本を見ながら、少し考えてから逆に質問した。
「この時、この子はどういう気持ちでこの台詞を言ってると思う?」
なるは自分なりに考えていた答えを話した。
この人物は相手に腹を立てている。だから感情をぶつけるように言っているつもりだった。
演出はしばらく聞いてから首を傾げた。
「そこなんだよな。たぶん、台本の解釈が少し違う」
なるの胸が詰まった。
「解釈……ですか?」
「もう一回、この場面までの流れを読んで考えてみて。台詞だけじゃなくてね」
答えは教えてくれなかった。
稽古が終わってからも、その言葉がずっと頭から離れなかった。
帰りの電車でも台本を開いた。
けれど、読めば読むほど分からなくなる。
怒っているように見える。
だから怒っているように演じた。
それの何が違うのだろう。
「分かんない……」
思わず小さく呟いた。
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その夜。
なるはいつもの時間に配信を始めた。
「こんばんは」
すぐに、いつものメンバーが集まってくる。
けれど普段なら「今日も疲れたー」と笑うなるが、その日はどこか考え込んでいた。
しばらく普通に話していたものの、とうとう一人が気づいた。
『今日なんかあった?』
「……分かる?」
最近、このやり取りが増えた気がする。
なるは少し迷ったあと、今日の稽古であったことを話した。
「演出さんにね、台本の解釈が違うって言われたの」
もちろん台本そのものを見せることはできないので、具体的な台詞には触れず、場面の状況だけを大まかに説明した。
なるが演じる人物と相手役との間に、少し気まずい出来事がある。その後で二人が話をする場面があり、なるは相手に怒っていると思って演じていた。
「でも、それが違うみたいなんだよね。みんなだったらどう思う?」
コメント欄には、すぐにいろいろな考えが流れ始めた。
本当は怒っているのではなく悲しいのではないかという人もいれば、相手に嫌われたくなくて強がっているのではないかという人もいる。逆に、怒っているという解釈自体は間違っておらず、その怒りの理由が違うのではないかという意見もあった。
「ちょっと待って。余計分からなくなってきた!」
なるが笑うと、コメント欄も笑いに包まれた。
もちろん、みんな演技の専門家ではない。
それぞれが自分ならどう感じるかを言っているだけだった。
それでも、なるは一つひとつの意見を読んだ。
そんな中、一つのコメントで目が止まった。
『その台詞の時だけじゃなくて、そこまでに何があったか考えてみたら?』
なるは少し黙った。
演出から言われた言葉と似ていた。
台詞だけじゃなくて。
「……そこまでに何があったか」
小さく繰り返す。
『相手がその前に何言ってるかとか』
別の人からもコメントが続いた。
なるは手元に置いていた台本を見た。
「そっか……」
何かが分かったわけではない。
でも、もう一度読み直してみようと思った。
「今日はここまでにするね。ちょっと台本読みたい」
まだ配信を始めて三十分ほどだったが、誰も引き止めなかった。
「頑張れ」「でも夜更かしするなよ」と送り出され、なるは笑った。
「はいはい。じゃあ、また明日ね」
配信を終えると、部屋は急に静かになった。
なるはすぐに台本を開いた。
さっきまで何度も読んでいた場面ではなく、もっと前から。
自分の役が登場するところまで戻った。
ゆっくり読み始める。
今までも台本は何度も読んでいた。
けれど、なるはいつの間にか自分の台詞を中心に読んでいた。
自分が何を言うのか。
その時どこに立つのか。
次はどんな動きをするのか。
間違えないことばかり考えていた。
今度は相手の台詞を意識して読んでみる。
この言葉を言われた時、自分の役は何を感じただろう。
その前の場面では、何があっただろう。
さらにその前は。
一つずつ追いかけていく。
すると、今までとは少し違って見えてきた。
「……あれ?」
なるはページを戻した。
もう一度読む。
確かに、この人物は相手に腹を立てているように見える。
でも、本当に怒りたいのだろうか。
むしろ――。
「寂しかった……?」
なるは呟いた。
信じていたからこそ、分かってほしかった。
分かってもらえなかったことが悲しかった。
でも悲しいと言うことができないから、怒っているような言葉になっている。
そう考えると、その後の台詞も少し違って見えた。
もちろん、これが正解なのかは分からない。
演出が求めているものとも違うかもしれない。
それでも、昨日までよりは、この人物の気持ちが少し近くに感じられた。
なるは台本を閉じず、その場面をもう一度最初から読み始めた。
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翌日の稽古。
同じ場面がやってきた。
「じゃあ、昨日のところからやってみようか」
「はい」
なるは立ち位置についた。
少し緊張していた。
昨日考えたことが合っている保証はない。
それでも、今日は怒っている人を演じようとは思わなかった。
相手役の台詞を聞く。
ちゃんと聞く。
その言葉を受けてから、自分の台詞を言った。
昨日とは声の出し方も、相手を見る目も違っていた。
場面が終わる。
演出は何も言わない。
なるは不安になった。
やっぱり違ったのだろうか。
すると演出が、少しだけ笑った。
「うん。わかってきたじゃないの」
なるは一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「……ほんとですか?」
「昨日より全然いいよ。ただ、まだ決めすぎないで。相手の芝居もちゃんと受けて」
「はい!」
返事が思ったより大きくなった。
周りから少し笑いが起きる。
なるも恥ずかしそうに笑った。
でも、嬉しかった。
正解を当てたからではない。
昨日まで見えていなかったものが、少しだけ見えた気がしたからだ。
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その日の夜。
配信が始まると、なるは疲れているはずなのにいつもより明るかった。
「みんな聞いて!」
挨拶もそこそこに話し始めたので、コメント欄には「今日は元気だな」と流れた。
「昨日のところ、今日またやったの。そしたら演出さんに『わかってきたじゃないの』って言われた!」
すぐに「おお!」「やったじゃん」と反応が返ってくる。
なるは嬉しそうに昨日の続きを話した。
配信を終えたあと、みんなの意見を思い出しながら台本を最初から読み直したこと。そこで、自分がいつの間にか自分の台詞ばかり見ていたことに気づいたこと。
「みんなが昨日いろんなこと言ってくれたから、もう一回ちゃんと考えてみようって思えたの。だから……ありがとう」
するとコメント欄に、
『でも考えたのはなるじゃん』
と流れた。
なるは少し黙った。
続いて「俺ら好き勝手言ってただけ」「正解なんて分からん」「演技したのはなるだから」といった言葉も続く。
「それはそうなんだけど……」
なるは笑った。
「でも一人だったら、たぶん『分かんない、どうしよう』ってずっと同じところで悩んでたと思う」
誰かの一言で、違う方向から考えてみる。
また別の誰かの一言で、自分が見落としていたものに気づく。
答えそのものを教えてもらったわけではなかった。
でも、答えを探すための入り口を、みんながいくつも作ってくれた。
「だからやっぱり、ありがとうだよ」
なるがそう言うと、コメント欄に拍手が並んだ。
しばらく話していると、いつものように「そろそろ寝た方がいいんじゃない?」と言われる。
なるは時計を見た。
まだ三十分ほどしか経っていない。
「今日ちょっと元気だから、もう少しやろうと思ってたのに」
『明日も稽古だろ』
「そうですけど」
『寝ろ』
「だからお母さんなの?」
いつものやり取りに、なるは笑った。
結局、その日も配信は四十分ほどで終わった。
「じゃあ、明日も頑張ってくるね」
いつものメンバーから「いってらっしゃい」「また明日」と返ってくる。
「まだ夜だから、いってらっしゃいは早いでしょ」
そんなことを言いながら、なるは配信を終了した。
画面が暗くなったあと、机の上の台本に目をやる。
舞台の稽古が始まってから、配信する時間はずいぶん短くなった。
以前のように一時間も二時間も話す日は、ほとんどない。
それでも毎晩、いつもの人たちは来てくれる。
疲れていれば休ませてくれて、悩んでいれば一緒に考えてくれる。
そして最後には、なる自身を稽古場へ送り返してくれる。
なるは台本を手に取った。
昨日までとは、少しだけ違って見える。
演じるということは、自分の台詞を上手に言うことだけではない。
相手の言葉を聞き、それまでに起きたことを考え、その人物が何を感じているのかを探していくことなのかもしれない。
もちろん、まだ分からないことばかりだ。
でも、分からなくなった時に一人で立ち止まらなくてもいいことを、なるは知っていた。
答えを教えてもらわなくてもいい。
誰かの言葉をきっかけに、もう一度自分で考えてみればいい。
そして見つけたものを持って、また稽古場へ行けばいい。
なるは台本を開いた。
明日もきっと、上手くいかないことがある。
それでも夜になれば、またあの場所へ帰ってくる。
そしてきっと、いつものように話すのだ。
「今日ね、こんなことがあったんだよ」
そんな毎日を繰り返しながら、なるは少しずつ、自分の役に近づいていた。




