第13話 夢と生活のあいだ
初舞台を終えて数日が経った。
あれほど緊張していた本番も、終わってしまえば不思議なくらい日常はあっさり戻ってきた。舞台に立った翌朝も太陽はいつも通り昇ったし、電車もいつも通り走っている。配信をつければ、いつものメンバーが「こんばんは」とやって来る。
そして、なるもいつもの生活へ戻った。
その中には当然、バイトもある。
「おはようございます」
久しぶりにいつもの制服へ着替え、なるは店に立った。
なるが働いているのは飲食店だった。俳優を目指し始めた頃から続けている仕事で、以前は週に四日、多い時には五日ほどシフトに入っていた。
注文を取り、料理を運び、空いた皿を片づける。混雑すれば店内を何度も行き来し、ようやく落ち着いたと思えば次のお客さんがやって来る。長く続けている仕事なのだから、身体も慣れているはずだった。
ところが、その日は妙に身体が重かった。
「なるちゃん、三番テーブルお願い!」
「はい!」
料理を運び、戻る途中で別のお客さんに呼び止められ、その対応を終えれば今度は片づけを頼まれる。以前なら何でもなかったはずなのに、昼のピークを越える頃には足が重くなっていた。
舞台が終わったばかりだからなのか、それとも稽古期間中にシフトを減らしていたせいなのか。
それでも、なるはいつも通り働いた。
ようやく店内が落ち着いた頃、店長が声をかけてきた。
「なるちゃん、舞台終わったんだよね?」
「はい。無事終わりました」
「どうだった?」
「緊張しましたけど、楽しかったです」
「そっか。よかったね」
店長も舞台のことは知っていた。稽古が始まってから何度もシフトを調整してもらったし、本番前にはまとまった休みももらっている。そのことに、なる自身も少し申し訳なさを感じていた。
だから続けて、「じゃあ来月は前みたいに入れる?」と聞かれた時、ほとんど考えることなく「はい、大丈夫です」と答えていた。
舞台は終わったのだから、以前のシフトに戻る。それはなる自身にとっても、ごく当たり前のことのように思えた。
店長も「助かるよ。最近、人足りなくてさ」と笑い、なるも「そうですよね」と笑って、その話はそれで終わった。
ところが仕事を終えて店を出た瞬間、なるは大きく息を吐いた。
「……疲れたぁ」
久しぶりに長く働いたからだ。
そう思おうとした。
でも明日もバイトがある。その次の日にはレッスンがあって、いつ入るか分からないオーディションもある。
家へ帰れば配信もしたい。
配信は仕事ではないし、誰かに強制されているわけでもない。むしろ、なる自身がみんなと話したくて続けている。
それなのに、全部を頭の中へ並べてみると、なぜか息苦しくなった。
舞台に立つ前とは何も変わっていないはずだった。
いや。
もしかすると、変わったのは生活ではなく、自分の方なのかもしれない。
一度舞台に立ったことで、俳優になりたいという気持ちが、それまでよりずっと具体的なものになっていた。
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その夜も、なるはいつものように配信を始めた。
「こんばんはー」
いつもの挨拶をすると、タクさんやみさ姉、ゆうちゃん、ケンケン、あかりといった見慣れた名前が集まり始め、少し遅れてしんさんやたっちゃんも顔を出した。
なるは「今日は久しぶりにちゃんとバイトしてきました」と笑って話したのだが、みさ姉からすぐに疲れているんじゃないかと指摘された。
「そんなに顔に出てる?」
画面に映る自分を見ても、なるにはよく分からない。
久しぶりに長く働いたからだと説明すると、タクさんからも無理をしていないかと聞かれた。
「してないって。大丈夫、大丈夫」
そう答えながら別の話を始めたものの、なる自身がその「大丈夫」という言葉を一番信用していなかった。
稽古中にあった失敗談や、初舞台が終わって少し気が抜けたことなどを話しているうちに、ふと会話が途切れた。
なるは少し迷ってから口を開いた。
「……あのさ。今日、店長に舞台終わったから来月は前みたいにシフト入れる?って聞かれたの」
それで「大丈夫です」と答えてしまったこと、以前と同じように週四日、多ければ五日ほど働くことになりそうなことを話した。
「元に戻るだけなんだけどね。でも今日久しぶりに働いたら、思ったよりきつくて……なんか、ほんとに大丈夫かなって」
すぐにゆうちゃんが、そんなにきついならバイトを減らしてもらえばいい、いっそ辞めてもいいんじゃないかと言い出した。
「辞める!?」
思わず笑ってしまった。
「そんな簡単に言わないでよ。私、生活できなくなるからね」
するとケンケンが、ゆうちゃんがなるの生活費を払ってくれるなら辞めてもいいんじゃないかと言い、ゆうちゃんは即座に「払えない」と返した。
「ほら!」
なるが笑うと、コメント欄も一緒になって笑った。
それでも、ゆうちゃんが「だって、なるがしんどいの嫌だもん」と続けたことで、なるの表情は少しだけ柔らかくなった。
「ありがとう。でもね、バイトしないと家賃も払えないし、ご飯も食べられないから」
口にしてみれば、当たり前のことだった。
夢があっても、生活は続いていく。
その話を聞いていたあかりは、自分なら仕事を辞めるのは怖いと思う、と書き込んだ。
なると同い年でも、あかりは大手企業で受付の仕事をしている。毎月決まった給料が入ってくる生活をしているから、それがなくなることを考えると簡単には辞められない。
なるも「そうだよね」と頷いた。
ところが、あかりは少し考えてから、なるの場合は自分とは違う気もすると続けた。
「違う?」
なるが聞き返すと、あかりは、自分が今の仕事を辞めたところで別の夢に近づくわけではないけれど、なるにとってオーディションやレッスンは、そのまま俳優の仕事につながる可能性がある、と説明した。
「……そっか」
同い年だからこそ、その違いが妙に心に残った。
なるにとってバイトは大切な仕事だ。
でも、目指している仕事は別にある。
だからといって簡単に辞められるものでもない。
考え込んでいると、今度はタクさんから店長にはそのことをちゃんと話したのかと聞かれた。
「舞台のことなら知ってるよ。シフトもずっと調整してもらってたし」
けれどタクさんが言っているのは、そこではなかった。
舞台が終わっても、これからオーディションが急に入るかもしれないこと。レッスンも続くこと。俳優を目指している以上、今後も同じようなことが起きる可能性があること。
店長はそれをどこまで分かっているのか。
なるは答えられなかった。
「でも、オーディションなんていつ入るか分からないし……」
タクさんから返ってきたのは、だからこそ話しておいた方がいいのではないか、という意見だった。会社で係長をしているからなのか、店長側の事情も少し分かるらしい。
なるが何も言わなければ、相手は「舞台が終わったから以前のように働ける」と考えて当然なのではないか。
言われてみれば、その通りだった。
店長はなるに夢を諦めろと言ったわけでも、無理をして働けと言ったわけでもない。
ただ、聞いただけだ。
そして自分が「大丈夫です」と答えた。
「……私が大丈夫って言ったんだもんね」
その言葉に、誰もなるを責めるような反応はしなかった。
たっちゃんは、身体のきつさならある程度は慣れると言った。ただ、現場仕事をしている彼にとって寝不足だけは別らしく、俳優だって身体を使うのだから、そこだけは甘く考えない方がいいと珍しく真面目な調子で念を押した。
それを見たみさ姉が、待ってましたとばかりに「だからいつも寝なさいって言ってるの」と加わる。
「今その話!?」
なるが笑うと、みさ姉から返ってきたのは「いつでもその話」だった。
「みさ姉、ほんとブレないなぁ」
少し重くなりかけていた空気が、ふっと軽くなった。
それからもいろいろな意見が出た。
バイトを減らしてもらう。
今の職場で難しいなら別の仕事を探す。
生活費を計算して、最低限どれくらい働く必要があるのか考えてみる。
オーディションを優先する。
今の職場が理解してくれるなら、できるだけ続ける。
どれも間違っているようには思えなかった。
だからこそ、なるは余計に分からなくなった。
「……みんなだったら、どうする?」
画面を見ながら聞いた。
それまでいろいろな意見が流れていたコメント欄が、少しだけ静かになった。
その中に、しんさんの言葉が現れた。
『なるさんは、何を一番守りたいんですか?』
なるは画面を見つめた。
「守りたいもの……?」
生活。
バイト。
配信。
レッスン。
オーディション。
どれも大切だ。
どれか一つを捨てれば簡単になるのかもしれない。でも、そんな簡単に捨てられるものはなかった。
しばらく黙っていたなるの口から、不意に言葉が出た。
「……俳優になりたい」
自分でも驚くくらい、迷いのない声だった。
「私、俳優になりたい」
初舞台に立った。
ほんの小さな役だったけれど、舞台袖で震えながら出番を待ち、照明の中へ踏み出した。
終わったあと、もう一度やりたいと思った。
今度はもっと大きな役をやってみたい。
舞台だけではない。ドラマにも出たいし、映画にも出てみたい。
配信を始めたのだって、その夢に近づくためだった。
「でも……バイト辞めたら生活できないんだよね」
誰に言うでもなく呟いた。
夢を選べば生活できない。
生活を選べば夢に使う時間が減る。
そんなふうに考えていた。
けれど、しばらくしてタクさんから「辞めるか続けるかの二択じゃなくてもいいんじゃない?」と言われ、なるは顔を上げた。
「二択じゃない?」
まずは店長と話してみればいい。
週に何日なら働けるのか。
オーディションが入った時は相談できるのか。
今までとまったく同じ働き方が無理なら、別の働き方ができないか。
何も聞かずに諦める必要はない。
なるの中で、絡まっていたものが少しずつほどけていった。
「……そっか。週三くらいにできないか聞いてみるとか、オーディションが入った時は相談させてもらえないか聞くとか……そういうのでもいいんだ」
誰かに答えをもらったわけではなかった。
ゆうちゃんの言うことも、あかりの言うことも、タクさんやたっちゃんの言うことも、それぞれ違う。
その全部を聞いたからこそ、自分がどうしたいのかが少し見えた。
「明日、店長に話してみる」
なるはそう決めた。
「前みたいに週四とか五は難しいですって。オーディションが入った時も相談させてもらいたいって、自分でちゃんと言ってみる」
コメント欄に応援する言葉が流れる中、ゆうちゃんだけは「ダメって言われたら辞めよう」とまだ言っていた。
「だから早いって!」
なるが笑う。
その笑い声で、その日の相談はひとまず終わった。
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翌日。
バイトへ行ったなるは、休憩時間になるのを待って店長へ声をかけた。
「あの、店長。昨日のシフトのことなんですけど」
「うん?」
そこから先が、なかなか出てこなかった。
舞台のために何度もシフトを調整してもらった。人手が足りないことも知っている。
一度は自分で「大丈夫です」と言った。
それを翌日になって変えてほしいと言うのだから、勝手だと思われても仕方がない。
それでも、なるは昨日みんなと話したことを思い出した。
「昨日、大丈夫ですって言ったんですけど……やっぱり前と同じように週四とか五で入るのは、ちょっと難しいかもしれなくて」
店長は何も言わず、続きを待っていた。
「これからもオーディションが急に入ることがあると思うんです。レッスンも続けたいし……できれば週三くらいにしてもらって、オーディションが入った時は相談させてもらえないかなって」
言い終えて、なるは頭を下げた。
「勝手言ってすみません」
少しの間があった。
なるにとっては、ずいぶん長く感じた。
やがて店長が言った。
「そういうことなら先に言ってよ」
なるは顔を上げた。
「え?」
「舞台終わったっていうから、前みたいに戻れるんだと思ってた。俳優の方はこれからも続けるんでしょ?」
「はい」
「だったらそう言ってくれればいいよ。もちろん急に全部休まれたら困るけど、早めに分かれば調整できるし。とりあえず来月は週三で組んでみようか」
「いいんですか?」
「その代わり、入ってる日はちゃんと働いてね」
「はい!」
思っていたより、ずっとあっさりしていた。
なるは何度も頭を下げた。
何もかも解決したわけではない。
週三になれば、その分だけ収入は減る。
急なオーディションに毎回対応してもらえるとも限らない。
それでも、自分から話したことで道が一つ増えた。
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その日の夜。
「ということで、来月から週三になりました!」
なるが報告すると、コメント欄には拍手や「よかった」という言葉が次々と流れた。
店長が話の分かる人でよかったと喜んでくれるみんなに、なるも嬉しそうに頷いたあと、少しもったいぶるように指を一本立てた。
「ただし。当然ですが、お給料も減ります」
ケンケンから「現実だな」と返ってくる。
「現実です!」
なるは笑った。
全部がうまくいったわけではない。でも、これまでよりレッスンやオーディションに使える時間は増える。
すると誰かが、配信時間も増えるのかと聞いてきた。
「増えた時間を全部配信に使ったら意味ないでしょ!」
またコメント欄が賑やかになった。
そんなやり取りをしながら、なるは昨日までの自分を思い返していた。
一人で考えていた時は、今まで通り働くか、バイトを辞めるか、その二つしかないように思えていた。
店長に一度「大丈夫です」と言ったのだから、頑張らなければならないとも思っていた。
けれど、みんなと話してみたら違った。
仕事をしている人。
会社で部下を持っている人。
身体を使う仕事をしている人。
自分と同じ年齢で会社員をしている人。
それぞれの立場から、違う意見が出た。
どれか一つが正解だったわけではない。
なるはそれを聞いて、自分で決めた。
「なんかさ」
なるは画面を見ながら言った。
「辞めるか続けるかだけじゃなかったんだね」
しんさんから「だいたいのことは二択ではありませんよ」と返ってきた。
「しんさん、なんか先生っぽい」
『元先生です』
「あ、そうだった」
するとすかさずケンケンが、校長先生の話が始まるのかと茶化し、しんさんは「今日はやめておきます」と返した。
「今日はなんだ」
なるが笑うと、コメント欄にも笑いが広がった。
俳優になりたい。
その気持ちは変わらない。
でも、夢を追うにも家賃はかかる。ご飯も食べなければならないし、電車に乗るにも、レッスンを受けるにもお金がいる。
夢だけを見て生きていくことはできない。
だからといって、生活するためだけに働いて、オーディションを諦めるようになったら、何のために頑張っているのか分からなくなる。
きっと、その間に自分の道がある。
今はまだ、それを探している途中なのだ。
「よし」
なるは小さく頷いた。
「頑張って売れよう」
すぐに「急に結論でかくなった」と突っ込まれた。
「だって俳優で生活できるようになったら全部解決じゃん!」
その通りだけど、と笑われながらも、「頑張れ」「いつかそうなろう」といった言葉が続いていく。
そしてその中に、当然のように「なる大好き!」が混ざった。
「ゆうちゃん、それ今関係ある?」
『ある』
「どこに?」
『全部』
なるは思わず吹き出した。
「もういいや」
時計を見る。
明日はレッスンがある。
バイトはない。
少し前までなら、予定の空いている日を見つければシフトを入れようとしていたかもしれない。
でも明日は、俳優になるために使う日だ。
それも今の自分には必要な時間なのだと思えるようになった。
「じゃあ今日はこのへんで。また明日ね」
いつもの「また明日」が流れていく。
なるは手を振り、配信を終えた。
夢だけでは生きていけない。
生活だけでも、きっと自分らしくは生きられない。
その間で迷いながら、少しずつ自分に合った道を探していく。
今はまだ、バイトを辞めることはできない。
それでいい。
いつか本当に、俳優の仕事だけで暮らせる日が来たら。
その時はきっと、今日のことを思い出すのだろう。
夢と生活のあいだで初めて、自分の生き方を考えた日のことを。




