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第12話 はじめまして

舞台初日の朝、なるは目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。

まだ起きるには少し早い。もう一度眠ろうと目を閉じてみたものの、頭の中には今日の台詞や立ち位置が次々と浮かんでくる。

結局諦めて起き上がり、カーテンを開けた。

「……今日なんだ」

誰もいない部屋で口にすると、急に実感が湧いてきた。

配信を始めた頃には、こんな日が来るとは思っていなかった。

人前で話す練習になればいい。少しでも自分を知ってもらえればいい。そんな事務所の勧めから始めた配信だった。

初めてのガチイベントでは四位だった。

朗読を始めた。

知らない人から「たいして上手くない」と言われて悔しくなったこともあった。

そして次のイベントでは七位。それでも審査員特別枠に選ばれ、オーディションを受け、初めて役をもらった。

それが今日、本当に舞台になる。

緊張しないはずがなかった。

それでも、支度を済ませたなるは家を出た。

劇場へ向かう電車の中では、台本を開かなかった。

今日はもう、新しく何かを覚える日ではない。

今までやってきたことを出す日だ。

そう思ってはいるのだが、劇場が近づくにつれて心臓は正直に速くなっていった。

「緊張してるなぁ、私……」

小さく呟いて、なるは電車を降りた。

劇場に到着し、関係者用の入口から中へ入る。

スタッフに挨拶をして楽屋へ向かおうとした時だった。

「なるさん」

スタッフに呼び止められた。

「お花、届いてますよ」

「お花?」

一瞬、何のことか分からなかった。

案内された先には、出演者へ贈られたいくつもの祝い花が並んでいる。

色とりどりの花の中を何気なく見ていたなるの足が、止まった。

「……え?」

見覚えのある文字があったわけではない。

それでも、その名前だけは見間違えるはずがなかった。

祝 初舞台 なる様

そして、その下。

素敵なるーむ一同

「…………え?」

なるはもう一度、同じ声を出した。

近づいて札を見る。

やっぱり書いてある。

素敵なるーむ一同。

「なにこれ……」

思わず笑った。

その直後、胸の奥から何かが込み上げてきて、なるは慌てて目元を押さえた。

「ちょっと待って。まだ本番前だから……」

ここで泣いたら困る。

メイクだってこれからなのに、朝から目を腫らしてどうする。

それでも、もう一度花を見る。

誰が考えたのだろう。

誰が手配したのだろう。

昨日まで、みんな何も言っていなかった。

配信ではいつも通りだった。

ケンケンはくだらないことを言っていたし、みさ姉には早く寝ろと言われた。ゆうちゃんは相変わらず「なる大好き」と言っていた。

みんな知っていたのだろうか。

なるだけが知らなかったのだろうか。

「……ずるいなぁ」

そう呟きながら、なるは笑った。

写真を撮ろうとしてスマートフォンを出し、やめた。

あとで撮ろう。

今はまず、舞台だ。

「ありがとうございます」

誰に言うでもなく、花に向かって小さく頭を下げた。

---

開演時間が近づくにつれて、緊張はどんどん大きくなった。

舞台袖で待っていると、自分の心臓の音まで客席に聞こえるのではないかと思うほどだった。

客席のどこかに、五人いる。

自分の名前でチケットを取ってくれた五人。

その中に、普段配信を見てくれている人がいるのかもしれない。

そう思った瞬間、余計に緊張した。

「ダメダメ」

なるは小さく首を振った。

今は探す時じゃない。

照明が変わる。

出番が来た。

なるは息を吸い、舞台へ出た。

最初の台詞を言うまでは怖かった。

けれど相手役の台詞を聞き、それに返し、稽古で何度も歩いた場所へ足を運ぶうちに、少しずつ身体が動き始めた。

台詞を間違えないように。

立ち位置を間違えないように。

そんなことばかり考えていた最初の稽古とは違う。

相手の言葉を聞く。

自分の役ならどう感じるのかを考える。

そして返す。

緊張は最後まで消えなかった。

それでも、大きな失敗をすることなく、なるは自分の初舞台を終えた。

袖へ戻った瞬間、全身から力が抜けた。

「……終わったぁ」

近くにいた共演者が笑った。

「まだお見送りあるよ」

「あっ」

そうだった。

そして思い出した。

もしかしたらこれから、初めて会う人たちがいる。

舞台とは違う種類の緊張が始まった。

---

終演後、出演者たちはロビーに並んだ。

次々と観客が通っていく。

「ありがとうございました」

なるも笑顔で頭を下げる。

感想を伝えてくれる人もいれば、軽く会釈をして帰っていく人もいる。

その中で、一人の男性がなるの前で立ち止まった。

五十歳くらいだろうか。スーツではなかったが、落ち着いた雰囲気で、どこか会社員らしさを感じる人だった。

「初舞台、お疲れさま」

「ありがとうございます」

「良かったよ。ちゃんと最後まで観てたから」

その話し方に、なるはなんとなく引っかかった。

男性は少し笑った。

「タクです」

なるの目が大きくなった。

「えっ!?」

思わず大きな声が出た。

「タクさん!?」

「そう」

「えー! タクさんこんな感じなんだ!」

「どんな感じだと思ってたんだよ」

「いや、なんか……タクさんだ!」

自分でも何を言っているのか分からない。

初めて会った人なのに、初めて会った気がしなかった。

毎日のように文字で話している人が、今、目の前にいる。

「本当に来てくれたんだ」

「そりゃ来るよ。初舞台なんだから」

その言い方まで、いつものタクさんだった。

なるは嬉しくなって笑った。

「ありがとう、タクさん」

「うん。また配信で」

「はい!」

タクさんが離れる。

そのすぐ後だった。

「なるー!」

明るい声が聞こえた。

なるより少し若そうな女の子が、満面の笑顔で近づいてくる。

なるは一瞬考えた。

まさか。

女の子は、なるの前まで来ると迷いなく言った。

「なる大好きだよ!」

「やっぱりゆうちゃん!」

二人とも笑った。

「本当に言った!」

「言うって言ったじゃん!」

「毎日聞いてるのに!」

「直接言いたかったの!」

画面越しと何も変わらない。

いや、実際に声で聞くともっと勢いがある。

「舞台よかった! なる可愛かった!」

「そこ舞台の感想なの?」

「可愛かった!」

「芝居は!?」

「好き!」

「感想になってないよ!」

それでも、なるは嬉しくて仕方なかった。

「ありがとう、ゆうちゃん」

「また配信行くね」

「待ってる」

ゆうちゃんが手を振りながら離れていった。

なるは笑顔のまま次の人に頭を下げる。

何人かが続いた。

そして、一人の男性がなるの前を静かに通り過ぎようとした。

軽く会釈だけして、そのまま出口へ向かう。

なるも一度は「ありがとうございました」と見送った。

ところが。

少し先で、その男性がタクさんと話しているのが見えた。

なるは目を細めた。

「あれ?」

男性がこちらを見る。

目が合った。

すぐに逸らした。

怪しい。

「ちょっと待って!」

男性の足が止まる。

「……はい?」

「もしかして」

なるはじっと顔を見る。

「ケンケン?」

沈黙。

「ケンケンでしょ?」

男性は数秒黙ったあと、真顔で言った。

「スルーするー」

「…………」

なるは思わず顔をしかめた。

「寒っ!」

タクさんが吹き出した。

ケンケンも笑いながら戻ってくる。

「スルーするって言ったじゃん」

「本当にやる人いる!?」

「でもバレた」

「タクさんと喋ってるからでしょ!」

「失敗したな」

「というか初対面でダジャレって!」

「記念だから」

「何の記念よ!」

配信とまったく同じだった。

なるは笑いながら頭を下げた。

「でも、来てくれてありがとう」

ケンケンも今度は少し真面目な顔になった。

「お疲れ。ちゃんと観てたよ」

「うん。ありがとう」

「じゃ」

「今度こそ普通に帰るんだ」

「スルーするー」

「二回はいらない!」

笑いながらケンケンを見送った。

次に現れた女性を見て、なるは一瞬言葉を失った。

自分と同じくらいの年齢だろう。

きれいに整えられた髪に、派手すぎないけれど洗練された服装。どこか華やかさがあって、なるは思わずその女性を見つめてしまった。

女性が少し恥ずかしそうに笑う。

「……あかりです」

「えっ!」

今日何度目か分からない声が出た。

「え、あかり!?」

「うん」

「……可愛い」

あかりが吹き出した。

「最初にそれ言う?」

「だって可愛いんだもん!」

「なるに言われるとは思わなかった」

「受付やってるって聞いてたから、なんとなく想像してたけど……あかり、こんな感じなんだ!」

「どんな感じだと思ってたの?」

「もっと普通の……」

なるは慌てて口を押さえた。

「あ、違う! 今の言い方ダメ!」

「ひどい!」

「違う違う! そうじゃなくて!」

二人で笑った。

同い年だからだろうか。

初めて会ったはずなのに、話している感覚はどこか友達に近かった。

「今日は来てくれてありがとう」

「こっちこそ。観られてよかった」

「今度配信で感想聞かせてね」

「うん」

あかりを見送りながら、なるはまだ少し不思議な気分だった。

コメントだけでは分からないことが、こんなにもある。

そして、お見送りも終わりに近づいた頃。

見覚えのない男性が、なるの前で立ち止まった。

「お疲れさま」

「ありがとうございます」

「初舞台、おめでとう」

「ありがとうございます」

男性は少し笑った。

「ハルです」

なるは固まった。

「…………ハルさん?」

「そう」

「え!? 名古屋は!?」

「やめた」

「ええ!?」

なるは思わず身を乗り出した。

「推しは!?」

「今日はこっち」

「こっちって……」

ハルさんは、何でもないことのように言った。

「今日の推しは、なるだよ」

なるは言葉を失った。

普段からアイドルを追いかけて、全国を飛び回っているハルさん。

そんな人が、今日は自分を選んでここにいる。

「……それ、ずるい」

「何が?」

「嬉しいじゃん」

なるが笑う。

少しだけ目が熱くなった。

「ありがとう、ハルさん」

「明日は別の推しだけど」

「戻るの早っ!」

最後までハルさんだった。

---

その夜。

なるは家へ帰ると、荷物を置いて着替えた。

身体は疲れていた。

初舞台を終えた緊張が一気に抜けて、今すぐベッドに倒れ込みたいくらいだった。

それでも、スマートフォンを手に取った。

長くはやらない。

少しだけ。

配信開始のボタンを押した。

「……ただいま」

すぐにコメントが流れ始めた。

『おかえり』

『お疲れさま』

『初舞台おめでとう』

『おかえりー』

今日劇場で会った名前もある。

会えなかった名前もある。

それを見た瞬間、なるはやっと帰ってきたような気がした。

『ちゃんと何か食べた?』

「もう!」

なるは笑った。

「みさ姉! 初舞台終わった人に最初に聞くことそれ!?」

『大事でしょ』

「食べました!」

『何食べた?』

「……おにぎり」

『それだけ?』

「始まった!」

コメント欄が笑いで埋まる。

なるも笑った。

いつもの場所だった。

「あのさ」

少しして、なるは声の調子を変えた。

「お花」

コメント欄の動きが、ほんの少し鈍くなった気がした。

「みんな知ってたでしょ?」

誰も答えない。

「絶対知ってたよね?」

『なんのこと?』

ケンケンだった。

「今日会ったからね! もう文字だけで誤魔化せないからね!」

笑いが起きる。

なるも笑ってから、もう一度言った。

「本当にびっくりした。劇場入って、スタッフさんに『お花届いてます』って言われて……見たら『素敵なるーむ一同』って」

言葉にすると、また胸が熱くなった。

「……誰が考えたの?」

今度は一斉にコメントが流れた。

『ハル』

『ハルさん』

『ハル』

『ハルさんです』

「全員売るじゃん!」

そしてハルさんが、

『こういうのは慣れてる』

と書いた。

「さすが推し活のプロ……」

なるは感心してから、ふと疑問に思った。

「でも、まとめたの誰?」

今度は、

『タクさん』

と並んだ。

「やっぱりタクさん!」

『係長だから』

ケンケンが書く。

「係長関係ないでしょ!」

タクさんが『俺もそう言った』と返し、また笑いが起きた。

話を聞いていくうちに、なるはタクさんが代金をまとめて立て替えていたことまで知った。

「えっ、全部!?」

『あとでみんなからもらうから』

「いやいやいや、タクさん太っ腹すぎない?」

『係長だから』

「だから係長関係ないって!」

しばらく笑ったあと、なるは少し黙った。

そして、ゆっくり言った。

「でもさ……」

今日劇場に来てくれたのは五人だった。

タクさん。

ゆうちゃん。

ケンケン。

あかり。

ハルさん。

来られなかった人もいる。

みさ姉も、まーくんも、しんさんも、たっちゃんも、さくらも。

ほかにも、いつも配信を見てくれている人たちがいる。

「なんで『お花出した人一同』じゃなくて、『素敵なるーむ一同』にしたの?」

少し間があった。

しんさんが答えた。

『応援は、お金を出した人だけのものではありませんからね』

なるは黙った。

第4話のイベントの頃、自分が悩んだことを思い出した。

たくさんポイントを使ってくれる人。

無料の応援を続けてくれる人。

毎日コメントしてくれる人。

ほとんど話さないけれど、ずっと見てくれている人。

応援の形は、一つではない。

あの時、自分なりに考えて決めたことだった。

それを今度は、みんなの方から教えてもらった気がした。

「……そっか」

なるは笑った。

「じゃあ今日、劇場にはみんないたんだね」

コメント欄が静かになった。

「来られた人も、来られなかった人も。あのお花に『素敵なるーむ一同』って書いてあったから……みんな来てくれてたってことにする」

『勝手に行ったことになった』

まーくんだった。

「いいの!」

『交通費浮いた』

「そういう問題じゃない!」

また笑いが起こった。

なるは画面を見つめた。

今日、初めて舞台に立った。

緊張した。

無事に終えることができた。

そして、初めてタクさんたちに会った。

不思議だった。

ずっと知っている人たちなのに、初めましてだった。

「今日さ、みんなに会って思ったんだけど」

なるは少し照れながら言った。

「初めましてなのに、全然初めましてって感じしなかった」

タクさんの落ち着いた話し方も。

ゆうちゃんの「なる大好き」も。

ケンケンのくだらない冗談も。

全部、いつも通りだった。

あかりだけは想像よりずっと可愛くて驚いたけれど。

『まだ言う?』

あかりが反応する。

「だって本当に可愛かったんだもん!」

『なる大好き!』

「ゆうちゃんは今関係ない!」

またコメント欄が賑やかになる。

なるは笑った。

画面の向こうにいる人たち。

今日初めて顔を見た人もいれば、まだ顔を知らない人もいる。

年齢も仕事も住んでいる場所も違う。

それでも毎日のように同じ場所へ集まって、くだらない話をしたり、悩みを聞いてもらったり、時には意見がぶつかったりしながら、ここまで来た。

最初は『なるの部屋』だった。

いつの間にか、みんなで名前を考えて『素敵なるーむ』になった。

なるは時計を見た。

「今日はもう寝ます。さすがに疲れた」

すぐにみさ姉から『それがいい』と返ってくる。

「今日は素直に言うこと聞きます」

なるは画面に向かって手を振った。

「みんな、本当にありがとう」

少しだけ考えてから続ける。

「舞台に来てくれた人も、来られなかった人も……今日はみんなに言います」

そして笑った。

「初舞台、観に来てくれてありがとう」

たくさんの「お疲れさま」と「おめでとう」が流れた。

なるはそれをしばらく眺めてから、いつもの言葉を口にした。

「じゃあ、また明日ね」

『また明日』

『おやすみ』

『ゆっくり寝て』

『なる大好き』

「はいはい、知ってます」

笑いながら配信を終えた。

静かになった部屋で、なるはスマートフォンを置く。

今日、舞台の上から客席の一人一人の顔を見ることはできなかった。

それでもいい。

五人には初めて会えた。

まだ会ったことのない人たちもいる。

きっとこれからも、ずっと顔を知らないままの人だっているのだろう。

それでも画面の向こうには、一人一人の生活があって、一人一人の顔がある。

そして今日、そのことを初めて実感した。

何度も話してきた。

何度も笑ってきた。

何度も「また明日」と言ってきた。

それでも今日が――。

初めまして。

そんな不思議な一日だった。

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