第3話:のーす ― 僕らの始まりの、長男
のーすとの出会いは、2017年の冬へと遡る。
その年の3月、元妻の元へ寄り添っていた犬が虹の橋を渡った。ペットロスの悲しみは深く、彼女は泣きながら「もう二度と、生き物は飼わない」と誓っていたはずだった。けれど、喪失の穴は時間が経つにつれ、別の形を成して膨らみ始める。11月、彼女がふと口にした「猫を飼おう」という言葉が、僕らの静かだった日常の歯車を動かした。
いくつものサイトを眺め、ペットショップを巡り歩いた。そして辿り着いたのが、あるブリーダーの家だった。
玄関を開けた瞬間、何十匹もの猫たちが一斉に視線を向けてくる。活発に走り回る子、好奇心で足元にすり寄ってくる子。賑やかな喧騒の中、一匹だけが少し離れた場所で、こちらをじっと見つめていた。
それが、のーすだった。
人見知り全開で、僕らと視線を合わせようともしない。他の子たちが僕らの注意を引こうとする中で、彼だけが静かな頑固さを纏っていた。でも、僕は迷わなかった。最初から、この子を連れて帰ろうと決めていたのだ。選ばれた一匹というよりは、僕が彼に見惚れてしまったという方が正しい。
家に迎えた最初の数日間は、不安でいっぱいだった。小さな体で部屋の隅に隠れ、僕らの気配を警戒するのーす。けれど、数日も経てばそんな緊張は嘘のように解け、彼は僕らの日常に溶け込んでいった。大型の猫種だったこともあり、彼の成長は驚くほど早かった。あんなに小さかった手足が、瞬く間に立派な筋肉を纏い、威厳のある姿へと変わっていく。
大人になっても、のーすは根っからの甘えん坊だった。
ソファでくつろいでいれば、巨体でするりと僕の懐に潜り込み、ゴロゴロと重たい音を喉から鳴らす。その温もりが、僕の日常の軸だった。ただ、彼には少しだけ困った癖があった。遊んでいる最中に興奮が昂ぶり、ガブりと僕の腕を噛むのだ。時には皮膚が裂け、絆創膏が必要になるほどの怪我を負うこともあった。けれど、そんな行動に僕は怒りなど微塵も感じず、「いってぇ!」と笑いながら彼の頭を撫でるしかなかった。それほどまでに、彼のすべてが愛おしくてたまらなかったのだ。
夜、ベッドで眠れば彼は必ず僕の足元に丸まった。冬の夜、彼の温もりが僕の冷えた足を包み込んでくれる。それが何よりの安らぎだった。
ときどき、彼は玄関の前でじっと座り、外へ出せと切なげに鳴いた。その背中を見ていると、広い世界を夢見ている彼の心の広さを感じたものだ。僕は彼を抱き上げ、「ここは安全だよ」となだめながら、彼と一緒に過ごす時間が永遠に続くのだと信じていた。
のーすは長男として、誰よりも僕を慕ってくれた。
家の中にあった小さな秩序、平和な空気は、いつもこの頼もしいリーダーを中心に回っていた。モコが彼を親のように追いかけ、他の兄弟たちがのーすの立ち振る舞いを見て育つ。彼がいてくれたからこそ、僕の家庭は「家族」として完成していたのだ。
今、のーすのいたあの場所には、誰もいない。
彼が噛んだ跡さえも、今となっては懐かしく、愛おしい勲章のように思える。
のーす。君は今、どんな夢を見ているのだろうか。
外の世界へ出たがっていたあの玄関の扉は、もう開かない。でも、君が僕に見せてくれたあの孤独な人見知りの瞳と、僕の腕を掴んでいた力強い抱擁だけは、何年経っても僕の心の中で生き続けている。
僕が一番最初に愛した、大きな長男。
君に出会えたことが、僕の人生を変えた。君がいなければ、僕は本当の意味で「誰かを守る」という喜びを知らなかっただろう。
届かないと分かっていても、夜、静寂の中で僕はまた君の名前を呼ぶ。
のーす。また会おうね。君のあの、少しだけ不器用で、けれど真っ直ぐな愛を、僕は今もここで待っている。




