第7話 食の偏り
馨しい香りの正体は、カレーだった。
豪奢なシャンデリアの下、無駄に大きな長方形のテーブルの上には、純白のテーブルクロスなどお構いなしに並べられた、カレー、カレー、カレー……。
そんなカレーの国を演出したと思しき存在は、呆気に取られるばかりの里璃へ、自身が着席する席の前方を示す。
「リリよ。どうした、座るが良い」
「……サトリですってば。…………し、失礼します」
カレーと等間隔に並べられた、これまた必要ないと思われる無人の椅子を横目に進み、里璃は「夜」の向かいに腰掛けた。
その際、椅子を引こうとする動きの先を行く動きで、アメジストの瞳を持つトヒテに椅子を引かれる。
先ほどから従者と呼ばれ続けているが、扱いは「夜」の客か何かのようだ。
不審に思う眼は「夜」を真正面から見つめ、口内は鼻腔を擽る匂いの刺激に自然と潤っていく。
これを知ってか知らずか、す……と相変わらず隙のない優雅な身のこなしで、「夜」が大衆食堂に在りそうなカレーを指した。
「好きな物を好きなだけ食せ。空腹は理解を遅らせるだけだ」
「……はぁ」
一応、返事をし、ベストポジションに備えられたスプーンを手に取る。
が、数多あるカレー。一体どれを食べたものか分からず、迷い箸ならぬ、迷いスプーンが宙を漂う。
「……どうした? カレーを食したいのではなかったのか?」
「え……と?」
どこら辺でそういう話になったのか分からず首を捻れば、
「ふむ? トヒテから、今日の夕食はカレーと決めている旨を聞いたのだが……」
「あー……」
思い当たったのは、レトロな洋風の造りに圧倒され、慣れ親しんだご飯を思い浮べたこと。
小さくぼやいたつもりだった。
それをはっきり聞かれていたと知っては、恥ずかしさを紛らわすように、何も触れていないスプーンで口元を隠す。
「いや……その、今日は、カレーライスだったんです。私が材料煮て市販のルー入れて。仕上げに兄が……とまあ、そんな感じで。決めたというより、決まってたというか」
言いつつ、段々と腹が立ってきた。
思い出したのは、頭の湧いた兄が口走った、「俺と里璃の共同作業で、可愛い子が生まれたぞ!」という台詞。
早い話が、里璃の作ったレシピ通りのルーを下地に、断りもなく兄が色んなモノを投入しただけなのだが。
チョコレートに蜂蜜、マヨネーズにソース、ケチャップにチーズ等々、冷蔵庫にある物をいい加減に入れて掻き混ぜ、自分の前に里璃へ味見を強要した兄。
断ったはずなのに、隙を狙って口に突っ込まれたそれは――
と、物思いに耽る里璃の前に、コトリとカレーライスが置かれた。
何の変哲もない、店にあるようなものでもない、一般家庭で作られたソレ。
食べろという意味だろうか?
カレーを視界に入れつつ、上目遣いで「夜」を見たなら、手で勧められた。
そのくせ、肝心の「夜」の前にあるのは、ワイングラスに注がれた赤い液体だけ。
ワインレッドの深い赤と違う液体は、テレビや雑誌で見た、スッポンの生き血のようにどろりとしたモノであるため、飲みたいとは決して思わないが。
「い、いただきます」
あまり注視しては、ワイングラスの中身を勧められそうな気がした里璃。
口元からスプーンを離し、カレーへ沈めようとし、先ほどから、じーっと、こちらの手元を、雰囲気だけ興味深く見つめている「夜」に気づいた。
妙な汗の幻覚が、頬から首にかけて流れていく。
(……ど、毒でも入ってるの?)
生じた疑惑は、注視に耐え切れず沈めたスプーンをカレーの中で小刻みに震わせた。そのまま迷いに迷っていれば、ため息に似た声が「夜」から為される。
「……毒なぞ入っておらん」
「!」
「心配せずとも、名に誓ったであろう? お前の眼の届く内では誰も傷つけはせぬと。誰、という中には、お前も入っている」
図星を衝かれて固まる里璃。
対し、「夜」は気だるげにワイングラスの中身を回す。
里璃が食べるのを待つというより、手にした液体を飲み干す以外の方法で処理すべく、考えを巡らせている風体。
そんなに不味い代物なのだろうか、いや、そうまでして口にしなければいけないものなのだろうか?
スプーンはカレーに沈めたまま、今度は「夜」自身を見つめる。
すると、白い仮面の黒く嵌め込まれた双眸の上、丁度、眉間の辺りが微かな影を作った。
顔を顰めているらしい。
(アレって仮面……だよね?)
分かりにくい微々たる変化に、知らず小首を傾げた。
と、里璃の眼がこちらを向いていると、今頃になって気付いた様子の「夜」が、気まずそうにため息を吐き出した。
切ない響きに、どきりと心臓が妙な具合に跳ねる。
思わず、どうしたのかと問おうとしたなら。
突如、白い仮面にぱくりと線が入り、そこから牙と赤い口内が薄く覗いた。
「!」
今の今まで、ただの仮面と思っていたモノが、本物の顔だったと知り、思わずあんぐりと口を開ける里璃。
そんなこちらには一瞥もくれず、意を決したらしい「夜」は液体を一気に飲み干した。液体を注がれた白い仮面は、グラスが空になると同時に牙と口内を隠し、不味いモノを飲んだ割にテーブルへ戻されたグラスは音一つ立てず。
「…………トヒテ」
『畏まりました』
名を呼ばれただけのトヒテが、要領を得たとばかりに、すぐさまグラスを下げ、コップを置いた。
そこに水と思しき液体が注がれたなら、今度は躊躇なく口にする「夜」。
飲み終われば、浅い息が白い仮面から零れた。
「…………相も変わらず、不味い」
「夜」は辛そうに椅子に凭れ掛かりながら頭を押さえる。
はらり、漆黒の髪が動きを追って、一筋、顔に掛かった。
と、ここでようやく「夜」の黒い目が里璃へ向けられる。
「リリよ。斯様に口を開けていては、埃を食す羽目になるぞ」
これには間髪入れず、傍に控えたトヒテが抗議の声を上げた。
『畏れながら御前。ワタクシの眼の黒い内は埃なぞ、この食堂には――』
「お前の瞳はオレンジではなかったか、トヒテ」
指一つでトヒテを招いた「夜」は、彼女のほっそりした顎へ指を滑らせ、己の方を向くよう誘導する。
『御前、そこはそれ、言葉のアヤとして流すのが大人と存じます』
応じるトヒテは、無表情を貫いた顔のまま、腰を屈めて「夜」の顔に影を落とした。
妙にドキドキする光景だった。
注意された口は閉じたものの、絶世の美少女トヒテが、洗練された紳士然の「夜」に従う姿は、里璃の喉を鳴らす。
(何だろう……この、極々自然な――――エロさは)
別段、目の前で情愛が交わされているわけでも何でもないのに、直視に耐えられない。ドラマか映画を視聴中に、予期せぬイケナイ場面に驚いたのも束の間、両親や兄が背後にいるのに気づいた時のような……。
そんな独特の気まずさがあった。
「…………」
里璃は静かに視線を逸らすと、展開される現実から逃避するように、毒かもと勘繰ったカレーを掬う。




