表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/50

英龍が遺したもの

「奥方様、おたい様、御覚悟を…。」

 

 当主の病気でそれどころではなかった正月が明けた頃、兄は危篤となった。

 

 三島大社では平癒祈願の神楽が、相模国(さがみのくに)の八幡宮では護摩(ごま)が奉納され、勘定奉行・松平近直様は妙法寺に一万部の経を納めて祈ってくれたと聞いた。

 見舞いの品も数々届き、兄の回復をこれほどたくさんの方々が願ってくれたのだが…。



 安政2(1855)年1月16日午前5時、兄は帰らぬ人となった。


 最期までこの国のために働こうと、意識がなくとも「馬を引け…」「城に行かねば…」ととうわ言を繰り返して。


 


 英龍に『勘定奉行』という大出世を用意していた阿部様は嘆き悲しみ、


空蝉(うつせみ)は 限りこそあれ 真心に たてし(いさお)は 世々に朽ちせし』

という弔歌(ちょうか)を贈ってくださった。


 水戸の斉昭公からは素晴らしい達筆で

『一方之長城』

との賛辞をいただいた。



 今月末に予定されていた『お台場落成記念の打ち様し上覧』は、阿部様の図らいにより、兄の栄誉として、死亡届を延期して執り行われた。


 総指揮は保之丞(英敏)が、補佐を娘婿の榊原鏡次郎殿が務め、大砲を打つのは兄が育てた韮山塾の塾生や家臣達である。


 御殿山(ごてんやま)(品川)から眺めていた家定は、その轟音と火焔(かえん)、海から立ち上がる水柱にしばし言葉を失った後、阿部や御三家、御三卿の面々と共に声を上げて喜び、「見事だ!!」とお褒めの言葉をおかけくださったと権太様が教えてくださった。


 権太様は兄と同じ絵画の趣味があり、その様子を『品川砲台大砲試発図』として描き残して兄の仏前に贈ってくださった。



 そしてその翌日、英敏が上様に呼ばれ、江戸城の出城である浜御殿にてお褒めの言葉とともに御池でお釣りになった魚を(たまわっ)った。


 お言葉と獲物の魚を賜るのは、大名でも一生に有るか無いかというほどの特別な思し召しだそうで、英敏は恐縮しきりだったらしい。



 兄の跡を継ぐために歳を4歳上に偽った英敏の本当の歳はまだ12歳。

 大人でも大切な人を失った悲しみからまだ立ち直れていないというのに、代官見習の勉強もしていなかったのに、突然代官の職や海防掛の職などを継ぐことになってしまい、こんな重荷を背負わせることを申し訳ないと思っていたのだが。


 病弱でおとなしいと思っていた英敏は驚くほど優秀だった。もちろん実務は娘婿の鏡次郎殿や柏木総蔵達といった兄の腹心の家臣団が代行してくれているが、突然将軍から呼び出されお言葉をいただいても、動揺を見せることなくしっかりした口調で失礼のない完璧な受け答えができたそうだ。

 「さすが江川殿の御子息だ」と、権太様もとても褒めてくださったと聞き、私も誇らしい気持ちになった。



 打ち様し上覧が済んだあと、兄の葬儀が執り行われた。


 江戸の菩提寺である浅草本法寺には2800人を超える人々が押し寄せ、狭い境内と周辺の路地はごった返し、人々の嗚咽は昼夜止むことがなかった。




「そういえばあの時、お二人はどんな話をされたのですか?」

 

 兄の法要を終えしばらくしたある晴れた日、私は義姉と縁側で茶を飲んでいた。

 前にもこんなことがあったと思い出しながら、あの時よりよほど悲しいはずなのに、私の心はなぜか凪いでいた。

 

 

 兄を見舞いに江戸に駆けつけた日、夫婦水入らずの時間のあと、薬を持って部屋に入った私が見たのは目に涙を溜めながら手を重ねて微笑み合う二人の姿だった。


 義姉は少し肩をすくめて

「秘密よ。」

といたずらっぽく微笑んだ。

次が最終話です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ