夢の狭間で願ったものは
夢か現か、朝か夜かも分からない。
高熱が出て息苦しいはずなのに、なぜか目の前の景色だけは冬の朝の冷気に当てられたように冴え冴えと色彩を放っていた。
10年以上前の光景である。水たまりに浮いた椿の花のように、疲れ切った心に越の笑顔が浮かび上がると世界が色を取り戻した心地がした。
天保13(1842)年夏、佐久間象山が英龍に『高島流砲術』を教えていただきたいと江戸屋敷に押しかけてきた。松代藩主であり老中の真田幸貫の威光を背に意気揚々とやって来たが、あまりに時期が悪過ぎた。
3か月前に鳥居が『高島秋帆の告発状』を評定所に提出したのだ。評定所は鳥居の告発を鵜呑みにはせず慎重論が出たが、鳥居は一歩も譲らない。
高島が逮捕になるかならないか、ぎりぎりの攻防が繰り広げられていた。
佐久間象山は何度穏便に断ってもあきらめず、とうとう強引に束脩(入門金)をまだ少年で見習になったばかりの柏木総蔵に押し付けて帰っていった。
これまで家臣達が穏便に断っていたのは象山の顔を立てていたからなのだが、そんな気遣いが通用する相手ではなかった。
後日再びやって来た象山を英龍が自ら説得した。
「佐久間殿、西洋式の砲術の必要性を理解しすぐに学びたい気持ちは分かる。だが今は高島先生を陥れようとする者が拙者を常に見張っている。
足元わや掬われぬよう、砲術の練習も逐一幕府に報告し許可を得てからでなければ行えぬのだ。」
「江川先生、それは気にし過ぎでござる.我が藩主も高島先生の釈放を訴えております。それよりも1日も早く高島流砲術を広めた方が、高島先生の望みに叶うのではないでしょうか?」
象山は政治の駆け引きに疎かった。真っすぐな心意気は認めたいが、あまりに楽観論過ぎる。
英龍自ら弟子を取れないと断っても、今度は老中・真田幸貫が直々に象山の弟子入りを依頼というごり押しをしてきた。
仕方なく象山の弟子入りを受け入れることになると、続々と他藩からも弟子入りの依頼が来た。
晴れて弟子入りした象山は韮山での講義がなかなか実技を伴わない、座学が多いことに我慢ができずすぐに不平をもらすようになった。
そして象山をたしなめようとする同期の塾生達に
「貴殿らはこのまま『兵』を学んで満足すればよい!拙者は『将』を学びたいのだ!!」
と口を滑らせ、一触即発の状態になった。
そして『喧嘩両成敗』の形で、この最初の塾生達は退塾するはめになったのだった。
「昼間は『鉄砲の間(最初の頃の塾生が学んだり生活した部屋)』が騒がしかったようですが、お加減はいかがですか?」
普段英龍の仕事に口を挟むことはしない越が、珍しく尋ねてきた。
「ああ、塾生達の不満が爆発してな。端を発したのはわしの教えが気に入らない佐久間という者の言葉だが、確かに早く砲術を習得したい気持ちは分かるのだ。
わしとてしがらみなく教えられるものならば一刻も早く教えたいのだがな。」
越は英龍が愚痴をこぼしたい瞬間を見逃さず、向き合って話を聞いてくれる。越に話しているうちに、英龍の怒りや不満が引いて昂ぶった心が凪いでゆく。
「『兵』と『将』ですか。」
「ああ、武士達は『将』として『兵』の上に立って武功を挙げたがるが、『兵』の心情を理解しない『将』に『兵』は命を預けたくはないだろう。」
「そういえば塾の皆様は、誰を『大将』と想定しているのでしょうか?」
「?それはもちろん徳川将軍家でなければ困るが…。」
「そうですね,『総大将』は上様でなければなりませんね。
ですがもし自藩の藩主を『大将』と見なして他藩の『大将』と敵対しては困りますね。」
まさに今日の塾生達の争いがこれだった。自藩の『将』となる自分を上に見て他藩の同格の者を下に見る。
徳川家が将軍家として君臨して以降国内で藩同士の大きな戦は起きていなくとも、互いに不満やわだかまりを抱えている藩は多い。また、自藩と関わりがない遠方の藩などには関心を示さないこともよくある話である。
「将棋では一対一の争いですから『飛車』や『角』のような敵を蹴散らす強い『将』が必要でしょうが、国を守る戦ならば味方を増やして『大将』と『大将』の間を調停できる『軍師』が欲しいですね。」
織田信長公に始まる『天下統一』という言葉はあれど、実際にこの国が一つの国としてまとまったことはまだない。
国力も主義主張もばらばらの各藩が、忠誠心と軍事力の習練度を足並み揃えて徳川家のもとに集結しなければ、イギリスやアメリカ、ロシアなどの足元にも及べない。
英龍は外国と戦って勝つことを想定しているのではない。諸外国に日本と戦争することは『益』ではなく『損』と理解させ、戦争を回避するのが目標である。
西洋式軍事化は、話し合いの土俵につくために最低限必要不可欠なものである。話し合いさえできれば、軍事力は行使しないですむに越したことはない。
それを理解してくれる『将』がどれだけいようか。御三家である水戸藩の斉昭公が徳川家の身内でありながら『戦って勝つ』ことを目標としている時点で前途多難である。
「であればこそ、やはりここは殿様が『軍師』になられるべきですね。
義母上様の『忍』の教えのように、己を押し隠して大局のために頭を下げられる方は貴重な存在です。」
英龍は戸惑った。
「いや、そんな風に買いかぶられても困る…。」
「いいえ、殿様の『滅私奉公』が理解され信望を集める時がきっとまいります。
だから耐え忍んでいる間も、どうか殿様を敬慕する者が居ることを忘れないでくださいね。」
この時の越の微笑みが英龍の原動力となった。
英龍には側室もいて、人生を捧げて自分に尽くしてくれる彼女達のことも大切にしているつもりであるが、やはり正妻である越への信頼は別格である。
武家に生まれた者としての責任、家や領地をともに守り繁栄させようという気概。
苦労をかけてばかりの結婚生活でも嫌な顔一つせず、英龍が求める『良妻賢母』であり続けてくれた。その思いに報いたい。
今はまだどの事業も芽吹いたばかりで手を離せないが、やがて落ち着いたら休みをいただくこともできようか。
籌之助を膝に抱き、越や保之丞と将棋を打ったり、卓の手習いも見てやりたい。生まれたばかりの英の寝顔を絵に描きたい。
忙しさと使命感で忘れかけていた日常の小さな幸せを家族皆と共有したい。
英龍の意識は夢に沈み、そのまま戻ることはなかった。
うまい言い回しが降ってこなかったので、この話はいつか書き直しするかも。




