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英雄・江川英龍の死①

「…そんなにお悪いのですか…?」


 兄の容態について医師の見立てが書かれた手紙が江戸屋敷から届き、急いで開いた義姉の目から涙が溢れたのを見て、背筋に悪寒が走った。


 兄は韮山を発つ時も真っ青な顔でふらふらだったが、まだ眼には力が残っていた。


 天城(あまぎ)の冬山の寒さをものともせずに狩猟の訓練で野宿できる強靭な身体の持ち主である兄のことだ、江戸で一流の蘭方医の治療を受けているのだからしばらく静養すれば回復するだろうと皆が安易に考えてしまっていた。


「すぐに江戸に向かいます、支度を!」

「お待ちください義姉上様!」


 私は慌てて義姉を止めた。


「箱根の山はまだ雪深いそうです。義姉上様の今の体調では無謀です!代わりに私が行きますから、義姉上様はこちらで」


「いいえ」


 私の言葉を遮って、義姉が今まで誰も一度も聞いたことのないような強い口調で続けた。


「いいえおたい様、私は行きます。結婚して30年が過ぎたけれど、殿様と一緒にいられた時間は半分もなかったわ。この家に直系の男児が必要なのは重々理解していたのだけれど…。」


 義姉と兄との間に生まれた男児達は皆、早逝してしまった。


 江川家は家が(おこ)って以来ずっと養子に頼らず『直系男子』で家を継ぐ決まりであったため、義姉が出産適齢期を過ぎてしまったあとは健康な男児を側室に求めなければならなかった。

 「武家の妻として受け入れなければならないことだから、そこに嫉妬してつらかったわけではない」と義姉は言っていたが。



「殿様と一緒に過ごせる時間がほとんどなくて、ただただ寂しかったの。殿様が生きる世界はとても広くて…。

私は殿様が蘭学を学び始めたまだ若い頃、夢物語のような外国の話を聞かせていただくのが楽しかった。

殿様は毎日目まぐるしく変わる世界でたくさんの方に囲まれて慕われて、忙しくも充実しておられたけれど、私は家の中で同じような日々を繰り返すだけでいたずらに歳を重ねてしまっただけ…。」


 義姉は40歳を超えたあたりから体調を崩し、気が(ふさ)ぐことが多くなったという。


 任子様が亡くなったあと、私は仏門に入り実家に戻ってきて義姉と一緒に暮らすようになったが、義姉は明るい日と気鬱の日では気鬱の日の方が多かった。



 それを兄に悟られぬよう隠していたのは知っていたのに、私は兄に新しい側室を勧める役目を負った。

 

 もう50になる、身体のあちこちに不調をきたすようになった兄が、寝る間を惜しむほど働きずくめだということを知りながら私は(ねや)の準備を整えた。

 


 兄にも義姉にもつらい役目をさせてしまった。ずっと心苦しかった。



 黒船に乗ったペリーが来る少し前に待望の男児・籌之助(じゅのすけ)が生まれたが、この上なく嬉しそうな満面の笑みの兄とは対照的に、義姉はようやく解放されたような疲れた微笑を浮かべていた。

 


 義姉と兄をこのまま離れ離れにしてはいけないと思った。この方を何としてでも兄の元へ連れて行こうと決心した。


 私は元締め手代の松岡正平(まつおかしょうへい)に詳細な指示を出した。「とにかく義姉上様の体調を最優先に」と。義姉の身体に万が一のことがあっては兄にも合わせる顔がない。


「ははうえ、おばうえ」


 義姉と私を呼ぶ、高く元気な声。言葉を覚えたばかりの籌之助を抱きしめ、

「父上がお元気になったら、そなたも会いに行きましょうね。」

と願掛けのような約束をすると、籌之助はこてんと首をかしげた。そんな姿も愛おしい。



 兄にもすくすくと元気に成長している籌之助を早く見せてあげたいと思うと涙が滲んでしまった。

英龍の子


長男・隼之助(早世)

長女・ちか(榊原鏡次郎の妻)

次女・れん(ちかとれんは逆かも?)

次男・邦之助(早世)

三女・卓(たか?たく?ゆき?)

四女・?(早世)

三男・保之丞(英敏)

五女・?(早世)

四男・佳之進(早世)

六女・?(早世)

五男・籌之助(英武)

七女・英(子爵ししゃく河瀬真孝かわせまさたかの妻)


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