残酷な『吉報』
12月11日に韮山屋敷にした英龍は意識もうろうとしていた。
先触れに聞いてはいたが、家族も家臣も皆、日頃強靭な体力の持ち主である英龍の弱り切った姿を見たことがなかったためここまで重症だとは誰一人予想しておらず、大騒ぎになった。
英龍は火鉢で温めた部屋で一晩こんこんと深い眠りについた。
翌日は熱も引き多少元気を取り戻し、粥を食べることもできた。
もうしばらく安静にすれば、またもとのお元気な殿様に戻るだろうと誰もが思っていたところに、『吉報』という厄介な手紙が届いた。
勘定奉行からに急ぎの手紙とあらば、家族や家臣では隠せない。英龍は痛む身体を無理やり起こし、その手紙を受け取って一礼して拝読した。
「…殿様、書状には何と…?」
元締め手代・松岡正平がおそるおそる尋ねると、
「…、台場落成の祝いに徒組ないし小十人組などを銃隊として編成して打ち試しを上様にお見せすると。
上様直々に拙者を指名され、拙者の指揮をご覧になりたいとおっしゃられたそうだ。
さらに、拙者個人にも吉報があると。なので急ぎ登城せよ、とある。まあ自分のことはどうでも良いが…。」
「それは…。」
松岡正平は言葉に詰まった。
「徒組や小十人組で銃隊を編成することが進めば、近い将来『軍』ができる。西洋式の軍事改革の第一歩だ。
さらに農兵採用の案を受け入れていただく可能性を見出せる。
上層部は武士の沽券に関わる『兵農分離』に固執しているが、もう外国には通用しない。
各藩に任せ各々の戦いをさせても無駄に人死にが出るだけだ。兵を集め団体戦の訓練を施さねば、外国の軍事力の前に散り散りになるだろう。」
反射炉も台場も西洋式軍艦製造も、ようやく前に進みだした。
だが天保10年から15年に渡り訴え続けている農兵だけは、下田以外では決して認めないと、前進の気配が全くない。兵の訓練の成熟度の大切さは、かつての『大塩平八郎の乱』にて如実に現れていた。
大塩が集めた烏合の衆は幕府側が体制を整えて反撃に出ると、ちりぢりに逃げ出して乱はあっという間に鎮圧された。
この時幕府側の指揮官は大坂城代・土井利位の家臣、鷹見泉石。
英龍や渡辺崋山の一世代先輩にあたる、古河藩の家老でありながら『ヤン・ヘンドリック・ダップル』という蘭名を持つ蘭学者でもあった。
彼は高野長英と渡辺崋山を引き合わせ、英龍に蘭学を学ぶよう進言する先見の明の持ち主で、高島秋帆やオランダ商館長・スチュルレルと面識があったため、西洋式の軍事にも見識があった。
渡辺崋山が描いた泉石の肖像画を、崋山亡き後見せてもらった英龍は声をあげて泣いた。
崋山が目指した西洋の技術と日本の伝統の融合、この絵はまさにこの国の至宝である。
兵の育成と共に指揮官の育成も急務である。
「この機を逃すわけにはいかない。上覧の際に兵の編成の大切さをしかと目にしていただかねばならぬ。」
「!ですがせめてあと2~3日だけでもお休みいただいてからで良いのでは…。」
「ならぬ。上覧に間に合うよう徒組らの訓練をしなければならぬ。明日出立する。」
主の強い意志を覆すことは誰にもできなかった。
農兵及び軍事改革は英龍だけではない、幡崎、崋山、長英、秋帆の悲願である。
翌朝、土気色の顔をした英龍は妻や妹、子供達、家臣一人一人の顔を見て
「留守を頼む。」
と言い残し駕籠に乗った。
リモートワークがあればねぇ…。
阿部正弘や松平近直らは英龍を褒めて喜ばせたくて、英龍はその思いに応えるために…。お互いの誠意が残酷な結果に…。




