安政の大地震
プチャーチンと川路が伊豆の下田にて通商条約について協議している最中であり、柏木らが長崎からの帰路の途中の嘉永7(安政元)年11月4日、『安政東海地震』が起こった。
豊川(愛知県豊川市)に宿泊中だった柏木らは急いで韮山に帰らなければと気は焦るが、倒壊する家屋や崩落した橋、津波による池のように大きな水たまりなどに阻まれ思うように進めない。
特に江川家の支配地の駿河国蒲原、吉原に入ると住民達から数々の陳情を受け、無視できない。
適切な指示を出しつつ韮山に着いたのは8日だった。
英龍は下田に川路とロシアの状況を確認しに行く手筈を整えながら、柏木ら三人の報告を聞いた。そして
「そうか、やはり教えてはもらえなかったか。仕方ない。まあ、彼らも『人』で我らも同じく『人』である。彼らにできて我らにできぬはずもない。自分達で作って見せよう。」
とすぐに頭を切り替え、英龍と三人が中心となり、忙しい合間を縫って着発弾製造の研究を重ねた。
一方下田は惨憺たる有様だった。
それは2回目の日露の交渉の翌日の朝10時の出来事だった。
2度にわたる大きな地震が彼らを襲った。
川路とロシアの面々が宿泊している泰安寺では至る所で灯篭や石塔が崩れ倒れていて、海を見れば波が大きく後退して、今にもこちらに向かって来ようとしている。
「津波だ!!逃げろ!!」
川路もロシア人も住民ともども背後の山を必死で登った。頂上まで登って周りを見れば、怪我を負っていないものはいないほどだった
江戸で主に台場の指揮を執っていた英龍は大地震の報告を受けるとただちに韮山に向かった。途中の道中のほとんどが支配地のため、被害状況を見て回り、救済の支持を出しながら韮山に着くと、次は急いで下田に向かわなければならない。
ここで英龍と川路の絆の深さが事態の光明となった。以心伝心で細かな打ち合わせをしなくとも備蓄米の放出やお救い小屋の設置などが早急に進められていく。
下田は6メートルを超える津波により甚大な被害を受けていたが、不幸中の幸いですぐそばに山があったおかげで死者は85名にとどまった。
川路が避難した広台寺でようやく再会した二人は一番の問題であるロシアとの協議について情報を交わした。
「川路殿、和親条約の件はどのような具合ですか?」
「それが、アメリカと同じようにとはなかなかいきませんでした。何しろ国境問題がありますからな。択捉島や樺太の領有権をつめなければなりませんが、イギリスの名をちらつかせると良い感じに話を進められるようになりました。
しかしそこであの大地震が起こり、予定していた開港場所について、下田は絶対に認められぬと、こうなってしまいました。まだまだ協議は続きますな。」
「左様ですか。ところで、ロシアの船を見ましたが損傷が激しい様子でしたが、修理などの話はどうなっていますか?」
「それが大変難儀しておりましてな、ディアナ号を修復する港についてプチャーチンは下田はおろか、近隣の長津呂(神奈川県)や網代、稲取も承服しないのです。
あくまでロシア側が適した港を探すと。そして「戸田村が良い」と言ってきました。」
「う~む、たしかに戸田は良い港ですが、ディアナ号が戸田まで持つでしょうか…。」
真冬のあの辺りは西からの強風が吹き荒れることを英龍は知っているので賛成しかねる旨を伝えたが、それでもロシア側は聞き入れず、戸田を目指した。
ロシアと川路の交渉
1回目…福泉寺(ロシア側の休憩は了仙寺?泰安寺?)
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地震で福泉寺が使えなくなる
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2回目以降、長楽寺、玉泉寺
お寺巡りしたい。




