ジョン万次郎①
「つきましては火急の願い事がございます。
土佐藩に『万次郎』という、アメリカに漂流して英語と航海術、造船技術を学んだ者が召し抱えられたと聞きました。
その者をぜひとも拙者のもとで起用させていただきたく存じます。どうぞ可能な限り早く招聘願います。」
「英語が話せる漂流民がいるとは聞いたが、航海術や造船にも明るいとは、まるで天がこの国を守るために遣わしてくれたような人物だな。相分かった、土佐藩に伝えておこう。」
嘉永6年6月19日、英龍は正式に勘定吟味役格を拝命し、海防の評議に加わることができるようになった。
今まで長きにわたり英龍の頭の中でしか存在できなかった計画が次々と形になってゆく。
6月22日、ペリーが退去してからわずか10日後、将軍家慶が薨去した。この大事な時期に将軍が亡くなったことはまことに遺憾で、その死の発表は次月に延期された。
英龍は、かの『大塩の手紙』の件で秘密裏に権太を通して将軍から感謝の言葉をいただいており、その人柄を惜しみ、家慶のためにもこの国や世継ぎの家定(家祥から改名)に尽くそうと決意を新たにした。
7月14日に浦賀水道などを巡見する時は、かつて鳥居と江戸湾巡見を命ぜられた際の幾多の妨害に遭い辟易した苦い思い出が浮かんだが、今回は自分の思うようにことが進む。
やけに身綺麗な中間が巡見に同行している斎藤弥九郎に話しかけた。
「斎藤先生、これからこの海の上に日本を守る最先端の台場ができるなんて夢のような話ですね!
私には完成の様子が想像もできませんが、きっと江川先生の頭の中にははっきりと完成した姿があるのでしょうね!!」
と目を輝かせて言うのは練兵館に入門わずか1年で塾頭になった長州藩(山口県)の桂小五郎である。弥九郎は彼の将来のため、長州藩士とばれないように変装させて参列させていた。
23日、内海に台場築造を命ぜられる。台場築造の莫大な費用は献金でまかなわることになった。
最初幕府の者達は、献金などでまかなえるはずがないと思っていたが、まず英龍が自分の支配地に呼びかけると、
「江川様がお国を守るために大層なお役目を仰せつかったらしい。」
「外国船を迎え撃つ大砲を設置するそうだ。」
「さすが江川様だ!」
と領民は英龍を讃え、集まった献金は4965両に上った。
これに安心した幕府が全国に「国を守るために献金を募りたい」と呼びかけ、総額96万3967両という大金が集まった。皆、この国を守りたいのである。
国民の必死の願いを真摯に受け止め、必ずこの事業を成し遂げる、と英龍は誓った。
下田に反射炉を築造することを許可され、下準備はすべて整えてあった英龍はさっそく反射炉築造に取り掛かった。
だが反射炉完成を待つ前に、今の設備でもできる砲と銃の製作は並行して行わなければならない。英龍は松平近直を説得して、湯島桜馬場(東京都文京区)に『湯島馬場大筒鋳立場(湯島大小砲鋳立場)』を設立した。
反射炉は鉄を用いるが、まずはこの湯島馬場大筒鋳立場で青銅製の砲の製作が始まった。
英龍は天保12年に高島秋帆に入門してすぐ、韮山にて砲や銃を製作し始めている。砲に関しては江戸で随一の鋳物師・長谷川刑部を召し抱え、高品質の砲を製作していた。
また銃に関してはまだ火縄銃が主流だった天保期、英龍は雷管式(パーカッション式)銃を完全な製法が伝わる前に自分達で研究して完成させていた。
雷管式銃とは雷管(金属製キャップ)に起爆剤を詰め、撃鉄が雷管を叩く衝撃を利用する仕組みの銃である。これは当時諸外国から高額を払って輸入しても、輸送の際の湿気などで発火不良になっているものが多かった。
日本では英龍に先立って尾張藩の蘭学者・吉雄常山が雷汞(起爆剤となる雷酸水銀)を研究していたが、不幸にも実験中の爆発で亡くなってしまった。
英龍は韮山塾の門人、松代藩士・片井京助と共に研究を重ね、純粋な雷汞では発火時間が短すぎるため精製硝石を混ぜて火の勢いを弱める方法を発見し、天保13年に完全な雷管製作を成功させていた。
8月2日、海防掛を命ぜられたことにより、高島秋帆を赦免の上、英龍配下とすることを許可された。
秋帆は11年に及ぶ幽閉にやつれて白髪になってはいたが、己の解放に尽力し、解放を涙を流し喜んでくれる英龍に深く感謝し、英龍のもとで働くことを快諾した。
そして9月、英龍待望の万次郎が江戸屋敷にやってきた。
タイトル詐欺みたいになってしまった。




